投稿者:もりっこパパさん
いつも見ております。サイトの運営・管理ありがとうございます。
さて、伊丹万作氏の「戦争責任者の問題」という文章はご存知でしょうか?
大東亜戦争を振り返って書かれた、昭和21年の文章なのですが、読んでみると、書かれている内容が、驚くほど現在のコロナ騒動と酷似していると思いました。
国民同士が相互監視したり、思考停止してしまったり、「ああ、人間は同じ事を繰り返しているんだな」と痛感しました。
「だまされた者の責任」についての考察も鋭く、今の日本人に対して言われてるみたいです。
もしお時間があれば、ぜひご一読をおすすめします。
URLの添付がうまくできなくて申し訳ないのですが、「伊丹万作 戦争責任者の問題」で検索すると出てきます。
(管理人カレーせんべいのコメント)
もりっこパパさん、教えてくださり、ありがとうございました!
伊丹万作「戦争責任者の問題」の全文
https://www.aozora.gr.jp/cards/000231/files/43873_23111.html
確かに、今読んでみても、ドキリとしますね!
「同調圧力の正体は、国家ではなく、顔を思い浮かべることができる身近な人間」というのは、大東亜戦争下とコロナ禍の共通点かもしれません。
また【だまされた者の責任】も考えさせられました。
確かに、今現在、政府や製薬会社は、国民を騙しているとは思います。
しかし後になって「騙された」と言う人は【一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがい】していると思います。
それって、恐るべき当事者意識の欠如だと思います。
なぜなら大した考えも無しに、歴史を誤った方向へ進めた片棒を担いでいるのだから。
「個(当事者意識)を放棄した者に、公に貢献することなどできないんじゃないか?」と考えさせられました。
インターネット広告欄
大平原インデアン (日曜日, 26 12月 2021 22:33)
もりっこパパ様
ご紹介ありがとうございました。
これって今のマスク警察と同じですよね。
日本人は歴史から何も学んでいなかったんですね。
【伊丹万作「戦争責任者の問題」より抜粋】
このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。
たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶつて出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れない。もともと、服装は、実用的要求に幾分かの美的要求が結合したものであつて、思想的表現ではないのである。しかるに我が同胞諸君は、服装をもつて唯一の思想的表現なりと勘違いしたか、そうでなかつたら思想をカムフラージュする最も簡易な隠れ蓑としてそれを愛用したのであろう。そしてたまたま服装をその本来の意味に扱つている人間を見ると、彼らは眉を逆立てて憤慨するか、ないしは、眉を逆立てる演技をして見せることによつて、自分の立場の保鞏ほきようにつとめていたのであろう。
こめ (日曜日, 26 12月 2021 18:32)
なんとなくこのコロナ騒ぎを目の当たりにして、戦争の時もこんなふうだったんだろうなと思っていた。ここ数年、このような文章に出会いたいと思っていた。日本人のほとんどは善人なのは知っている
頭も悪くないことも知っている なのになんでこうなるのだろうと、ずっと考えている。我々は若い時から毎日勉強してきた コロナが怖くないこと、ワクチンが危険なこと、ほんのちょっと、勉強してきた知識を生かせば簡単にわかるはずなのに。この二年の経験を振り返れば、わかるはずなのに。またオミクロン株でおなじ過ちを繰り返す予感しかありません。
ネモ (日曜日, 26 12月 2021 04:00)
大変良い文章のご紹介を有難うございました。
無知そのものが罪であると指弾する箇所は、本当にその通りで、騙された時点で、自分にも非があるのだと、当たり前のことが書かれており、ただ同意するのみであります。
しかし、謙虚で誠実であること、騙さないことそのものが、私のような凡俗には大変難しいのであり、個を貫くことが大変だと思いました。
自分すら騙して生きないと、生きられない時がありすぎるからです。本当の自分に向き合うことほど、辛く苦しいものはないのでは無いか。
そこで、善悪を論じたり、戦ったり、努力したり、足掻くわけですが、結局、ひとりの自分と向き合うことを棚上げにしたとき、その責任性に愕然とし、打ちのめされるのでしょう。
その重荷に耐えきれない人たち、無責任だった自分を許せない人たちが、他責を声高に主張し、叫び、自分の代わりに同胞を罰することで、自分を許そうとする代理的な行動に走りたがるのだと、思います。