≪思想≫ 「義務教育」における「価値の序列」を考える

 

投稿者:グッビオのオオカミさん  

 

小国の知恵。アルメニアが”チェス”を義務教育化した訳は

https://origin.gigazine.net/news/20130327-armenia-chess-lesson-school/

 

2013年3月27日と少し古い記事ですが、アルメニアはイランとトルコ、アゼルバイジャン、ジョージアに囲まれた人口290万人ほどの小国です。

 アルメニアにはオスマントルコ帝国から大虐殺を受けた経験があります。

 

また、20世紀にはソビエト連邦の支配下にあった歴史も。

 

アルメニアは2011年にもともと盛んだった”チェス”を義務教育に採用します。

 

実際、チェスが盛んで、チェスの世界的プレイヤーを輩出してもいます。

 

「アルメニアの文部大臣であるアーメン・アショットヤン氏によると、チェス義務教育化は子どもたちのリーダーシップ能力・決断力・戦略的な計画を練る力・論理的思考力・責任感を促進させクリエイティブな思考能力を育てることが目的で、現在までに300万ドル(約2億8450万円)以上をチェスの義務教育に費やしているとのこと。(本文より)」

 

つまり、「子供達の娯楽」だけでは無く、個人としても、国家としても、子供たちに判断力や論理性、計画性、洞察力、危険予測能力などを鍛え、同時に創造性を伸ばしたいという意図があるわけですね。

 

日本の場合、それがチェスでなくても将棋でも囲碁でも構わないと思います。

 

何なら「判断力」と「計画性」「戦略性」ならサッカーや野球でも着くだろうと思います。

 

私はそのアルメニアの選択の”意図”が大事だと思います。

 

小林よしのり先生は「日本人には”個”がない」といいます。

 

アルメニアと日本。私は国家の子どもの教育方針の「意図」と「前提」にすでに差が着いていないか?と思いました。

 

こういう子供の教育一つ、教科一つとっても「国家の生き残り」の意識が見られます。

 

さて、現代日本の場合はどうでしょう?

 

(管理人カレーせんべいのコメント)  

 

 

確かに「教育にこそ国家の方針が現れる」のだと思いました!

 

アルメニアの場合は、子どもたちはチェスの授業を通して「考える力」を伸ばすことで自分に自信を持つことができるというのが狙いなんですね。

 

それは否定はしませんが、ただ『自分の頭で考える』というのは、教科によって身につけることができるのだろうか?という根本的な疑問が、このコロナ禍で浮き彫りになったと思います。

 

そういう意味では「ゴー宣」や「おぼっちゃまくん」の方が、教科になり得るのかもしれません。

 

 

しかしながら教育においても「価値の序列」というものがあって、チェスや漫画を義務教育に取り入れるのは違うと私は考えます。

 

 

算数・国語・理科・社会が教育の「メインであるべき」ですし、仮に「教育的」であったとしても、チェスや漫画などは「サブカルチャーに位置付けておいた方が良い」と考えます。

 

なぜなら、考える力なんてものは「人生経験」の中で身につけるものであり、義務教育は、そのための体力作りだと私は考えるからです。

 

皆様は、どうお考えなのか、コメント欄で教えてください<(_ _)>

 

・・・

 

ところで「ゴー宣ファン大宴会」においても、囲碁のプロ棋士の人が参加されていました。

 

語り口が紳士なのに、情熱とユーモアにあふれてて、話を聞いてて学ぶべきことが多く、すごく面白い方でした♪

 

 


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コメント: 14
  • #14

    グッビオのオオカミ (水曜日, 08 6月 2022)

    多くのコメントありがとうございます。
    rokuさん、パワーホールさん、殉教中立派さん。
    御三方の文面を読み、なるほどとも思いました。(”チェス”という”やり方”にこだわってるのではなく、国力として民度としての「義務教育政策の考え方」にアルメニアの意識的な政策に見るべき点がある様に思ったのです)
    国語算数理科社会。中でも「読解力」と「論理性」「感受性」、「文章表現力」はあらゆる科目の基盤になるでしょうから、「国語」は基盤中の基盤と言えそうですね。
    殉教中立派さんの「読書と経験のフィードバック」はかなりうなづけました。

    これはコロナ禍前の日本人の読解力を示す記事です。
    『日本、PISA読解力ランキング「過去最低」これだけ改革してなぜ?』
    https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68901?imp=0
    文章がやや長いのですが、時間があったら一度目を通していただければ幸いです。
    これはテレビの煽動に煽られやすい国民性や、論理性や”個”の弱さと無縁ではないと思います。
    結局「関心の幅」が狭いのかも知れません。
    まして、隣国からの虐殺を経験した民と、島国で同質性の高い国民の中で「世間」と「仲良し」を当てにして暮らしていける民との差は大きいと思うのです。
    「国力としての義務教育」・・矛盾してるかな?少なくとも私はそういう視点もまた必要だと思うのです。

  • #13

    roku (水曜日, 08 6月 2022 21:51)

    学校では、まずは、日本で一人の人間として生きていけるように基本的な知識をしっかりと身につける場、これは基本原則だと思います。その知識を身につけるときに、子どもらしい「いのち」が発揮される空間でなければなりません。一つ一つの知識が理解できることは、子どもにとって大きな喜びであり自信にもつながり、社会へと船出する折の大きな土台となるような教育でなければなりません。「理解し、そこから自分の頭でかんがえる」それは子どもにとって何より楽しいことであると実感させ、それが子どもの生を育むものだと私は思っています。

  • #12

    パワーホール (火曜日, 07 6月 2022 23:34)

    まずは、日本語の授業が大事ではないでしょうか。加えて、古事記や日本書紀、遠野物語なんかも教えてほしいですね。古事記にしろ遠野物語にしろ話は端的なのだけどリズミカルなんだよな。言語だけでなく情操教育にもなると思う。あと、理科の授業で、ウイルス進化論についてもしっかり触れてほしい。ウイルス=病原体なんていう偏った知識が今回のコロナ禍の要因の一つでもあるし。ウイルスって勉強してみると面白いんだよなあ。宮沢先生には、本当に残念だ。

  • #11

    殉教@中立派 (火曜日, 07 6月 2022 22:45)

    学校は、様々な事を学びつつ、自身の「適正・非適正」を見極める場(勉強、運動、対人関係、その他の判断力など)であるのが基本。ここでは「勉強」に絞って話す。

    ・・まず、「意識高い系」の大人が、安易に「教養を身に着けた~い」とか言っているが、そんな発言をしている時点で、蒙昧丸出しである。というのも、教養とは「読書&経験」のリピート&フィードバックを、地道に反復して初めて「自分のもの」に出来るから。①読書には、基礎的な勉強能力&国語力が必要。ゴー宣シリーズの「誤読した連中の歴史」も、思い出しておこう。②経験には、そこから経験知&教訓を得るための「土台」を持った上で、そうした事象に接する必要がある。それもまた、勉強や過去の経験から得られる。

    学校の勉強は、単品では役に立たないが、↑土台作りとか「自分でリサーチする方法、慣れ」を鍛えるには有用である。
    そう考えると、誰しも自分の中に(学校で教わった)「教養の種」があるはずだが。学校の勉強を軽視していると、それが分からず、大人になって「教養ガー!」と喚きだす。要は、自分の中の「研鑽」を信じられない、という事。私は、出世からも世間からも敗北確定した産廃だが。ようやく、誰に気兼ねなく「真に自分の為の勉強」が出来るというものだ。こうしたインプットは、ゴー宣ファンたちの場で、着実にアウトプットしていきたい。

  • #10

    グッビオのオオカミ (火曜日, 07 6月 2022 13:53)

    何回も連投すいません。
    結局「実利主義」とでも言うのか、それも一種の「世間主義」と「出世主義」なのか。
    もちろん基礎科目は必須です(もちろん、アルメニアも同じだと思います)。
    ただ、日本は受験を有利に進めたい方が勝つのではないでしょうか。
    ここにも「国民」や「市民」を育てることよりも、「自分の子供の受験教育」を優先したいという考えがあると思います。
    もちろん、臨機応変さやタフさは人生経験で得るでしょう。
    しかし、子どもの内から古典的なゲームを通して、計画性や判断力や論理的思考を育て、”戦略的な計画を練る力”を国家が意図的に投資する所が面白いと思います。
    プロ選手を輩出して「国民に自信を付けさせたい」という事もあるでしょうが「将来の為に国民を育てたい」という事も大きいでしょうね。
    コロナ前でも「国際的に通用する子供」だの言ってましたが、徴兵制のある国や隣国からの虐殺を経験した国は多いでしょう。
    「受験教育」が子どもの教育の中心になってないでしょうか。出世主義や世間主義が、今後の変動する国際社会に生き残れるとは思えないのですが。
    少し乱暴に断定すると、出世主義と世間主義は一種の「他人の評判」「強い人の顔色」が基準だと思うのです。「優等生」とでも言うのでしょうか。
    コロナ禍に見る日本の混乱は、出世主義と世間主義が無駄に長引かせてる面もある気がします。
    アルメニアのエピソードは色々考えさせられました。

  • #9

    佐々木 (火曜日, 07 6月 2022 12:41)

    算数・国語・理科・社会は子供の考える力を養うのに必要な基礎教科だと思います。
    問題は教える側の大人たちがそれをおざなりにしてないか、ではないでしょうか。
    自分は学生時代、両親やメディアに散々「学校の教育は社会で役に立たない」と
    聞かされてきました。
    「学校の教育は社会で役に立たない」は「社会(商売)の道具に使えない」と
    捉えていた発言だと思います。
    だから、今の学校教育で英語やプログラム、金融などが導入されてきていると思います。
    ですが、本来の学校教育はまだ何者でもない供たちが個を確立する為の必要な基礎を
    学ぶものだと思います。
    ここを疎かにすると、今回のコロナ騒動のように自分で調べて考える事ができず、
    マスコミやセンモンカの言うがままになってしまうでしょう。
    あと、よしりん先生は戦争論からコロナ論まで、読める人が少なくなったと
    発言しています。
    チェスや漫画などは基礎ができていないと楽しめないと思います。

  • #8

    トマト (火曜日, 07 6月 2022 12:39)

    チェスを義務教育、面白いですね。
    学習漫画程度の知識しかないのですが、江戸時代とかに武士の子が兵法を習うような感じでしょうか?

    ちなみに、もし学校でチェスとか将棋とかの教科があったら、私は確実に劣等生になる自信があります。
    チェスはした事がないけれど・・・将棋、3手詰めにも苦戦。頭の中で盤面上の駒を動かせません(>_<)

  • #7

    グッビオのオオカミ (火曜日, 07 6月 2022 09:09)

    連投すいません。
    つまり「世間が守ってくれる」や「誰かが守ってくれる」とは無闇に教えないのではないでしょうか?

  • #6

    グッビオのオオカミ (火曜日, 07 6月 2022 08:41)

    カレーせんべいさん、それはそうです。
    まずは基礎科目が重要でしょう。
    ただ、日本に「戦略性を身に着けさせる」という教育方針は絶対に無いですね。
    チェスかどうかはともかく。
    子どもの教育の「考え方」と、国民の意識の差、これは決定的に日本と差を感じます。
    本文にもある様に
    「実際、アルメニアでは第一次世界大戦中にオスマン帝国によって大量虐殺が行われた歴史を持っており、アルメニア人が解決すべき問題は「幸せに生きるかどうか」ではなく「生きるか死ぬか」だったようです。」
    と言う箇所がとても国民の意識の差につながってる気がするのです。
    なら、日本の教育は何を基準にしてるかな?と疑問に思います。
    以前、小林先生がブログで「はじめてのおつかい」を海外ではどう考えるかを問うておられましたが、そういう差はこの差じゃないかと・・私自身は思いました。

  • #5

    ただし (火曜日, 07 6月 2022 01:19)

    「知育」と「徳育」ですかね。学校は基本的に知育を育む場所で、考える力は、教科を学ぶことで育つのかも知れませんね。
     それをどう応用するかなどの生きる知恵を育むことが徳育で、それは教えられると言うよりも、親や教師や地域の大人の振る舞いを見て、自ら学ぶものかな。

  • #4

    かわじ (火曜日, 07 6月 2022 00:57)

    教育ということで僕がこの2年で思ったことは「日本人は『逆算』がヘタクソだなぁ」とは思いました。

    例えるなら、穴埋めの問題で
    「A+B=□はすぐ解けても、A+□=Cって出題されると脳が止まってしまう」
    この場合Aが(コロナウィルスの毒性)、Bが(西浦式計算や富岳シミュレーションなど)、Cが(実際の結果・統計(ファクト))という風に例えると、わかりやすいかも知れません。

    つまり、仮に「1(A)+1(B)=3(C)」というおかしな計算式が出てきて、これを修正せよという問題が出てきたら、CではなくBの方を信じてしまう傾向の強い国民性なのかな、ということです。
    だから、B「間違った公式」で導き出されたC「間違った答え」を信じ➾「コロナ恐怖」も「マスク信仰」もやめられない。のではないかと。

    僕もこの手の専門家ではないので、ちょっと適切なコトバかどうか分かりませんが
    「逆算」「Cから逆に考える」って習慣を、様々なトコロに入れていかなきゃいけないんじゃないかな~?
    とは最近よく考えます★

  • #3

    madoka (火曜日, 07 6月 2022 00:16)

    道徳の教科が復活して、昔より遥かに意味不明の内容になってるように、教科にしたからそれが身につくのか?というのは私も思います。
    特に道徳なんてものは国から教わるものでもなく、親や地域社会の中で自分が体験しながら学んで行くものだと思いますし、今の道徳の教科書は押し付けがましくて、なんか変な世界観でものすごく気持ち悪いです。
    将棋や囲碁も、教科になったとしても、得意な子は得意だし、苦手な子は苦手だし、頭の回転の仕方が大いに反映されるので、教わったからとて大人の意図するように子どもが仕上がるわけでもないですからねぇ。
    しかし、今の小学校の国語算数社会も、なんだか変な風に教えるんだなぁと教科書見て思います。すっごいややこしいし、その一個のやり方以外で子どもがやろうとしないし、考えようとしないし。
    すいません、なんか話が逸れてしまいました(°▽°)

  • #2

    青ネギ (火曜日, 07 6月 2022 00:13)

    『基礎』がしっかりとしていてこその『応用』だと思うので、義務教育は教科中心で良いかと。
    「学校の勉強しか出来ないバカ」や「学校の勉強すら出来ないバカ」にならないためには、月並みですが『よく学び、よく遊べ』としか言いようがないです。
    もちろん、日本の教育制度も色々と問題はあると思いますが、小手先の改革よりも教科教育の充実を図ることが肝要なのではないかと思います。

    余談ですが、テレビから「プロキシ」と聞こえて来たのでコンピューターの話かと思って画面を見たら、「プロ棋士」の話でした。

  • #1

    オミズ (月曜日, 06 6月 2022 23:55)

    確かにメインとサブの価値の順列は大事ですね。結局、何の為に勉強するのか、子供達に目標を持たせることが大切だと思います。
    少し前にNHKで2009年に放送されたNスペ『プーチンの子供達』の再放送を見ました。カデットと呼ばれる軍の教育機関で学ぶ子供達は、ロシアを守るためと教えられ、物凄く熱心に学び、訓練に励んでいました。
    隣国がこの様な教育してるのに日本は国を守ることを教えずに大丈夫か?と思いました。