投稿者:のび太っ子さん
コロナ禍で感じたことは、いじめっ子といじめられっ子の関係の質が変わってしまったと言うことです。
コロナ前は「いいいじめ」があった。
極端な人権擁護により、叩いてはいけない人間が生まれ、いじめ自体の質が変わってしまった。
そう感じてしまう方はいませんか?
実際私はいじめられっ子タイプですが、今の世の中は全く笑えない。
上島竜兵の死がとても象徴的に感じます。
幼児期に階段を転げ落ちると皆が笑うから、何度もそれを繰り返すと言う体験をした身からすれば、ここまで笑えない世の中を歓迎出来る左傾化の恐ろしさを感じます。
もう揺り戻しは来ないのでしょうか?
コロナといじめ。極端な人権擁護によるその破壊。皆さんはどう思われますか?
(管理人カレーせんべいのコメント)
質問をされたので、私なりに回答しますね。以下、私の独断と偏見です。
私自身は「いじめられた経験」は無く、人から疎外されたことは、実生活においては無いです。
もちろん「一対一の関係」においては、人を傷つけてしまったり、人から傷つけられたりはありますが、それは「イジメ」ではないです。
投稿者さんが体験された「階段を転げ落ちると皆が笑うから、何度もそれを繰り返す」というのは明らかにイジメです。
まったく笑えないですし、こういう『笑いのはき違い』をする人間に対してヘドが出ます。
ずいぶんつらい体験をなさったのだと同情しました。
・・・
>極端な人権擁護により、叩いてはいけない人間が生まれ、いじめ自体の質が変わってしまった。
たとえば私は、自分の「ハゲ」を笑いのネタにしています。
身体的特徴やコンプレックスは「コミュニケーションツール」に転化する方が、笑ってもらえる可能性もあるし、自分も楽しいからです。
だから私は「イジり」は全然かまわないわけです。
しかしながら、中には『明確な悪意があって発せられた言葉』もあります。
イジリと悪意は、全然違います。
しかもそのような悪意の言葉が「仲間内の集団」の中では通用してしまうことが起こります。
つくづくイジメは「集団が増殖させるもの」だと感じます。
どんなエグイ言葉が出ても、どんなエグイ行動に出ても、集団だと感覚がマヒしてへっちゃらになるわけです。
イジメをしている側は「一対一の関係」になることを徹底的に避けます。
リンチでなければ優位に立てないからです。
単純に「卑怯者」なのです。
・・・
コロナ禍においては「圧倒的多数(集団)」と「圧倒的少数(個人)」の図式になりがちです。
つまり「イジメが発生する土壌」があるわけですね。
これに対抗するには「一対一の関係」に持ち込む必要があります。
そうやって「自分で戦う(復讐する)」ことでしか、「イジメに克つ方法」は無いと私は考えます。
救いの手なんて期待してもムダ。
この世に神様もドラえもんも存在しない。
自分の手でヤルしかない。
ただ、どうしてもそれが難しいようなら「その集団から離れること」が一番良い方法だと思っています。
それでイジメは解決するからです。
・・・
コロナ禍が終わったとしてもイジメは永遠に存在し続けます。
「次のターゲット」に変わるだけです。
人間社会から『悪意』と『集団』が無くなることなどあり得ないのだから、イジメもなくならないです。
だから私は、なるべく『好意』と『個人』の中に身を置きたいものです。
集団は嫌いだ。一対一の関係が良い。
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パワーホール (金曜日, 22 7月 2022 22:06)
自称専門家のやっているコロナ煽りこそがいじめではないでしょうか。マスクや感染対策等を肩書を持って強要し、自由を返そうとしない。これがいじめでなくて何と言いましょうか。
話は変わりますが、かつて知人にドSと言われたことがあります。自分でも少々性格的にきついと自覚していますが、他にも苦痛が嫌だったり打たれ弱いところがあります。半面自虐には嫌悪感さえ覚えます。けれども今ではドSでいいと思いますし、いじめは良くないですけど日本人はドSになった方がいいのではと感じています。
大阪の一会社員 (金曜日, 22 7月 2022 21:13)
「一対一の関係になることを徹底的にさけます。」…
そういえば、去年厳密には一対一ではないですが、小林よしのり、井上正康両者との討論を徹底的に避けた、木下孝弘、峰宗太郎がいましたね~。
あ、そういえば、彼らは「コビナビ」という集団ですね~。
さらにバックには厚労省ですか(笑)
かわじ (金曜日, 22 7月 2022 12:35)
カレーせんべいさんのおっしゃる
『イジメをしている側は「一対一の関係」になることを徹底的に避けます。』
うん、これ、すごく分かりますよ。
僕自身は昔わりといじめ喰らってた側なんですが、もうひとり僕と同じ立場の人間(その子は体臭がきつかったのでクサイ●●●っていじめられ方です)がいて、その子との学級内ヒエラルキー最下層争いをしてました(苦笑)
(雰囲気的にはサバンナ高橋のすべらない話に出てくる「寺田君エピソード」に近い感じですw)
つまり「やられる側」でもあり、身を護るために「やる側の最下層」になったりもしたわけです。
これを大人になって割と冷静に、フカンで考えるようになった時
「ああ、、、こういう負の輪廻から抜け出さないとイカンかったんだな」と考えるようになりまして。
以降、「自分の立場をどんな場所でもまず作る」ことから始め、かつ「集団心理に屈しない何か」を追い求めるようになりました。
『数を頼みにすれば人間はカンタンに畜生外道に成り下がる』
これは昔からある人間の業だと僕は思います。
『だからこそ、そこからの脱却』
これが僕の今生きるテーマのひとつでもありますね^^
やなちゃん (金曜日, 22 7月 2022 08:09)
私もいじめられる側ですし、3年前極端ないじめに合い、心療内科にも通いました。のび太っこさんのお気持ち、お察し致します。
カレーさんの仰る、いじめっこは1対1を嫌がるというのはその通りですよね。いじめっ子はとにかく自分が司令塔になりたく、従うスネ夫達はジャイアンいるのをいいことに安心してのび太をたたきます。スネ夫タイプに個々で話すと理解してくれる方もいますが、ジャイアンいる場では元の木阿弥です。子どももオバサンも全く同じ構図です。スネ夫タイプの方が大多数で、個々人悪い人じゃない分、質が悪いとも思ってます。
マスク着用、ワクチン接種で更にいじめの根が深くなり、質も悪くなった現状。お年寄りや基礎疾患ある方への接種促しも、善意を笠にきたいじめだと思ってます。
いじめは嫌な経験ですが、自分の弱さ痛感する以上に、いじめる側の弱さも理解でき、学びがとてつもなく大きいです。
いじめる側は多数の時にやることが大きくなります。ジャイアンタイプは一人になると陰湿な事しかしないです。のび太は一人でも多数でも陰湿にはならないので、それが人にわかりずらい強さだと思ってます。
「一人でいても寂しくない人間になれ」
私もこの言葉の通り生きていきたいですし、このサイトでお目にかかる方々もそのように思想や知識を深め、日々切磋琢磨しているようにお見受けしています。それが励みになり、私も負けまいと頑張る原動力にさせてもらってます。
グッビオのオオカミ (金曜日, 22 7月 2022 00:10)
私はいじめた事も、いじめられた事もあります。
これ、禁句かも知れませんが…伊藤詩織さんの話は合意の有無が、レイブかそうでないかの大事な争点ですね?
いじめる事と、いじる事・ふざける事。
カレーせんべいさんが言うように、悪意の有無だと思います。
それと、当事者同士の関係性、合意の有無だろうと思います。
コロナ禍の今、お互いの関係性は歪み、余計なストレスと価値観の分断も増えて、より難しい事態になってそうな気がします。
佐々木 (木曜日, 21 7月 2022 23:35)
自分もいじめられた方ですが、やられる度に不快な思いばかり募って、
自分の人生のブラスになった「いいいじめ」に出くわした事はありません。
人権擁護以前にいじめは許してはいけない事だと思います。
イジリは暗黙の了解や相手との関係性などで成り立つものだと思いますが、
そういう目に見えないものを理解できずに加減も分からずにやってしまい、
問題になるとイジリと主張して免罪符にしてしまおうとする風潮が
できてしまっているように思えてなりません。
ポコ太郎 (木曜日, 21 7月 2022 23:01)
いじめに負けない体力(腕力や暴力性、かましなど)や気力(負けず嫌いだけでなく、協調性や笑いに転嫁する能力、仲良くなる力量、中和する能力など)を持つしかないと思います。あと、1人の時間を楽しむことも。
人は3人集まれば派閥ができるといいますね。2人対1人となり、1人が疎外されるという意味で。
あえて勝たなくてもいいけど、負けない力がいるのかな。
しかし、何においても自分の考えや信念は必要やな。
殉教@中立派 (木曜日, 21 7月 2022 23:00)
「イジメの構図」についての小林先生の説明は、ゴー宣2nd①巻・P132を参照。
絶対権力者、(島宇宙的な)世間、同調圧力。
イジメの現場が「SNSなどのデジタル空間」に移ってから、かなりの時間が経った。木村花さんや皇族方を中傷する連中には「イジメている自覚、罪悪感」が、完全麻痺しているのが問題。ネトウヨ的な「被害者意識の強さ」が、「これくらいはいいだろう」という自己正当化に向かわせるのだろう。
しかし、左派が「人権擁護の理念」を振りかざした結果、陰湿で劣悪なイジメが増えているとは・・・「トイレの近代化がウイルスを増殖させた」ような皮肉だな。
私も「どこ行っても虐められるタイプ」ではあるが、小林先生も引用した「一人でいても寂しくないようになれ」がキーワードだ。どれだけ人が離れようと、積み上げた思想に殉じて散るなら、決して悪くない結末だと(結構本気で)思っている。