≪論考紹介≫ 時代の精神-戦争の要因となっているドストエフスキー

 

投稿者:妄想族たけさん

  

ツイッターアカウント名:じゅんさん @XC77CmyEodb0dix という翻訳をされている方が翻訳されたこちらの記事についてご紹介させていただきます。

 

こちらの記事は、ロシアの隣国であるウクライナ人の視点から、ロシア文学やサブカル、宗教を通してロシア人の本質について描かれたものとなっています。

 

私は、ウクライナにおけるロシア軍の蛮行とマッチし理解が深まったような気がしています。

 

また、途中読みながらゴー宣道場第31回『サブカル・ヒーローの本質に迫る』を思い出しました。如何せん文章自体が長めなので、時間のある時に読んでいただき、ぜひご感想を寄せていただけたらと思います。宜しくお願い致します。

 

https://ukrainer.net/zeitgeist-dostoevsky/

 

 

「時代の精神 - 戦争の要因となっているドストエフスキー」

 

 

西洋文学の思い描く“無垢なロシア文化”という言葉が使われるのは、前後関係の無知と無理解からではなく、精神的防御手段からそうするのだと私は確信しています。このアプローチは、平和を支持するはずの「良いロシア人」が「テレビで食い違う事を言っている」のを見るときと同じなのです。ロシア文化とその位置づけについて議論するには、これまでのロシアに対する全ての認識を改める必要があります。

 

まず、ロシア化がマリウポリで排斥されたとロシア人達は言います。しかし、ホロドモール(注:1932~1933年ソ連によって引き起こされたウクライナで起きた人為的大飢饉 https://eleminist.com/article/1106)や「浄化」、ロシア政府に対する反対運動などがあったので、とっくにロシア化は不可能でした。ロシア化は不可能であり、少なくとも絶対に修正されなければならないという事はヒューマニズムの観点からも明らかであり、嫌というほど歴史からそれを学ぶ機会がありました。ロシア化は、ホロコーストの前でさえ幾たびも形を変え続いてきました。しかし、誤解を恐れず言わせてもらえば、私たちの経験は、ロシアそのものに修正を迫るほどのものではありません。

この修正は単純な理屈です。もうロシアのプロパガンダの嘘を受け入れない、ということです。

 

ただ、一貫性を欠くとはいえ、ロシアのプロパガンダには「テーマ」があります。このテーマは国費で作られた愛国映画にも「不滅の名作」にも共通しています。そしてこのテーマこそが戦争を正当化しているのです。

 

テーマのリストは次のようなものです。キーウに始まる千年の歴史の排他的権利。ロシアの歴史的使命。ロシアの固有の道。その独自の方法。旧約聖書に聖的に定められた支配。西欧的価値観を嫌悪すると同時に適応しようとする支離滅裂な価値評価システム。ロシアの大衆文化の中でこれらを見かけることは、あまりにも多く一般的であるので、ただの偶然の一致として無視することは困難なのです。

 

もちろん、「Kadetstvo」(カデツヴォ:ロシア士官学校の若者たちのテレビシリーズ)から「Viking」(バイキング:10世紀のロシアを舞台とするロシアで最も制作予算の大きな映画の一つ。2016年に公開。)まで、全てのロシア文化作品が壮大な計画の下に用意されているなどと言うつもりはありません。それはバカバカしい陰謀論です。しかし、多くの作品に内在するテーマ、アイデア、イメージの一致はロシアにおける特殊なツァイガィスト(注:一般的な認識と理解の存在)を示しています。この時代精神はイデオロギー的公約よりも遙かに強力です。イデオロギー的公約は一時的ニーズに適応して、そのストーリーは日々変わっていきます。それに対して、ツァイガィストは特定の議題について議論をするとき、大前提として機能します。

 

こうして、ロシアの映画制作者と広告会社はツァイガィストに基づいて(さらに国防省との直接契約によって)自分たちが信じるものを作ります。作品は、作品が作られている環境を顕しています。これに当てはまる映画は、しばしば巨額の助成金を得ることになります。そして、全体主義の助成金制度は副作用をもたらす傾向があります。それらに資金を提供することが成功するための最良の方法になるので、自治体の宣伝を実行することが制作陣に奨励されることになります。

 

「アメリカン・ニューシネマ(注:1960年代半ばから1980年代初頭にかけてのアメリカ映画史のムーブメント)」は反戦感情、そしてポスト・アメリカン・ドリームに対する疑いと冷めた目線がありました。それが当時のアメリカのツァイガィストであり、何千もの映画作品に反映されていたのです。そして、現代のロシア文化作品を見ると、殆どどれも今の時代精神を顕す赤い旗が見えます。

 

一つは、軍の軍事カルト(注:軍隊に対する狂信性)です。軍事カルトはソビエト時代から続くものであり、ソ連時代のたぶたぶの制服へのノスタルジックな崇拝を含みます。ドラマ「Soldiers(兵士)」「Kadetstvo(士官候補生)」「Trainees(訓練生)」(注:ロシアの兵役全分野に及ぶ、高視聴率のテレビドラマシリーズ)および無数の軍事映画は、制服の美学と雰囲気を形作るのに寄与してきました。

彼らは人生の究極の目標を軍人として活躍する事だとみなしていて、男性になるためには軍人として活躍しなければならないという考え方をもち、自衛戦争をしたことがないのに欠かさず隣国を攻撃する国となっています。これはファシズムです。

 

 次に、それはロシアが他国に自分たちのやり方を押し付けることです。ロシアには古典文化とロシア映画やテレビシリーズがあります。役者は、西洋の傾向を取り入れて、特にポストソビエト世界の人々にアピールする古風でノスタルジックな作品を制作しています。

 

 このロシアの文化的世界から自由になろうとする試みは、激しい抵抗に直面してきました。ロシアは常にその言語と文化を押し付け、私たちはウクライナ人であるために、私たち自身の表現方法を“ナチ”のものとして否定してきました。問題は、ロシア人はウクライナ文学、映画、その他の表現を理解していないことが多いということです。そのため、私たちは彼らを理解することを余儀なくされました。これは、現代の人文科学者なら誰でも理解できる、植民地支配国と被植民地国の力関係なのです。この力関係が存在することだけで、聞き飽きたロシアの物語を修正する理由として十分はなずです。

 

 ロシア人にはウクライナ人に対する偏見があります。それは、おっとりとしていて騙されやすい、愚かだがずるい女性のイメージです。軍隊シリーズのテレビ番組を見れば、思い当たるキャラクターがすぐに見つかります。不器用で友好的な“ウクライナ”系ロシア兵士または訓練生の登場が許されるのは、一作品で1人(場合によっては家族)のみです。これが植民地主義の異国情緒の仕組みです。そのような偏見は、殆どのロシア人がよく知っていると言って過言ではありません。

 

「The Nanny(アメリカのドラマ)」のロシア版「My Wonderful Nanny」シリーズでは、マウリポリ出身のウクライナ人スターレットはモスクワに住み、“ロシア世界”と完全に一体であると感じています。しかし、現実世界ではロシア軍はマリウポリを爆撃し、人々を飢えさせています。そして、マリウポリはロシアへの降伏を拒否しています。

 

 これは、彼らの寛容さの詐欺的演出と、勝手に我々を代弁しているささやかな一例に過ぎません。支配国の期待に反する行動は攻撃的に排斥されます。この場合、植民地化されたものは“人”ではなく正しい兄弟の絆を妨害する“敵”と表現されます。そうしたガスライティング(注:対象者に劣等感を植え付ける心理操作術)がロシアの外交手法なのです。

 

 「無視していればそのうちロシアも諦めるかもしれない」と考えてロシア文化の修正を否定する人もいるかもしれません。しかし、少なくとも同じくらいの人の意見は、ベラルーシの詩人で翻訳者のアントン・ブリルの提案する説明です。「西側の一部が『偉大なロシア文学』としてごちゃまぜにしている方法は、ヴィクトリア朝オリエンタリズム(注:18世紀、多数の植民地を有していた大英帝国が欧州文化からアジア圏の文化までを包含していた文化)的用法の最後の事例として今こそ認識されるべきです。」この言葉こそ、この問題を正確に理解していると思います。西側はロシアの文脈についてほんの僅かしか理解しておらず、その僅かの部分でさえ、殆どソビエトに影響されたスラブ研究の結果でしかありません。

 

 ロシアの創作物において、ウクライナ人に愚か者の役割を与えましたが、それでも私たちはまだ幸運でした。それはただの嘲笑でしたが、それでも私たちは存在を許されました。ロシア連邦に組み込まれた100以上の無国籍民族グループには、そのような贅沢はありません。軍事カルトを広めるロシアの大衆文化は、人種差別主義者です。ウクライナを攻撃した多くの占領者は、非スラブ民族グループに属していますが、ロシアの軍事創作物にはトルコ人、シナチベット人、または北シベリアの先住民族は登場しません。

 

それは、スラヴォイ・ジゼクが指摘した暗黙の人種差別であり、これについては西側諸国が長年、ロシアを放置していたことにもいくらか責任があります。ヨーロッパは、ウクライナが「ヨーロッパの一部だから」という理由で助けますが、それだけではありません。ロシアは故意に西欧文化から距離を置いてきました。ロシアは他民族問題を避けようとはしませんでした。ロシアは内政問題の煙幕として利用するために他民族問題を利用しています。問題は、何百もの異なる民族がこれらの他民族制約の中に囚われていることです。そして、彼らの声がしなくても、それが一般的“ロシア人”物語に合うので無視される傾向があります。

 

 ロシア文化自体は現在の戦争をしておらず、罪はありません。ハリコフを爆撃したことでトルストイやソルティコウ・シチェドリンを非難するのは馬鹿げています。しかし、この文化がロシアのイデオロギー構成物の中で際立った位置を占めていることは理解しなければなりません。“作者が何を伝えたかったのか”に関係なく、古典的ロシア文化は、今日、ファシストの考え方に深く統合されています。したがって、文化が「政治と文化は別だ」と話す前に、敵が「プーシキンではなくプーチンだ」と宣言する前に、民間人の殺害を承認するイデオロギーでプーシキンがどのように機能しているかを理解する必要があります。これは、適切な教育を受け、民主主義の理想とヒューマニズムを尊重する全ての人の知的責任であると考えられます。

 

 最も代表的な二つの作品に絞りましょう。私の考えでは、この二作品は皮肉にも、(そうであってほしい)「神秘的なロシアの魂」と呼ばれる「ロシア人の在り方」を完全に表現しているのです。それはドストエフスキーの『罪と罰』と、ロシア映画基金が製作した『バイキング』です。

 

 ドストエフスキーは海外におけるロシア文学の「顔」の一つです。ロシア人は学校の授業で一般的な解釈を知っているし、この作品の有する考え方はどのロシア文学部でもコピー&ペーストされます。しかし、西欧においては殆どの場合、ロシア研究に基づいて解釈されているのです。

 

 『罪と罰』の解釈を簡略化すると「人間の堕落の深さを描きつつ、深い心理描写の機会を見出し、普段は見過ごしがちな人間性を探っている」ということになります。このような解釈が、学校で習う標準的な考え方であり、大学でも多少洗練されていくが、同じような理解が一般的です。ソ連の全てのカリキュラムは同じシナリオに従うことになっていたのだから不思議ではありません。そうです、そこには心理学主義があるのです。そして原始的な実存主義もあります。

ロシア人は厳格な道徳の枠組みの中で生きているのです。つまり、ロシア人は最悪の状態になるほど人間らしくなることができる、そのような確立した価値観のヒエラルキーを持っているのです。

 

 ロシア人に関するこの説明は、直感的な理解を促しますが、不誠実な印象も与えます。ロシア人にモラルはあるのだが、彼らには周囲の“どん底”がよりグロテスクに見えると言うからです。

 しかし、ドストエフスキーを文字通りのグロテスクなあらゆる社会悪を誇張し、嘲笑した作品として読んでみれば、必ず納得がいくはずです。“白痴”は“罪と罰”を理解するための鍵になります。それは、何かを信じ、自分なりの価値観を育んできた男の物語です。自分なりの価値観を持った男がロシアの「一般社会」に入り、ロシア社会が抗えない力で彼を押しつぶす。ロシアはもともと強権的な国ですから、個人の願望は関係ないのです。

 

 ドストエフスキーの日記はこの視点を支持しています。「ロシア人の根本的な問題は、永遠に揺るぎなく、いつもどこでも苦しむ必要があることだ」と。この見方を受け入れると、理解の次元が変わります。そう、彼らは普通の人々であり、彼らを認識するのは簡単なことなのです。彼らが置かれている地獄のような状況は、彼ら自身の行動と選択によって作り出され、永続しているのです。しかも、私たちがロシア人に出口を与えるという選択肢がないのです。

 

 ドストエフスキーは、私たちを困惑させます。ドストエフスキーの示すところは、犯罪の背後にある人間性を認めることが重要である、というヘーゲル的な法哲学ではないのです。それどころか、犯罪者が人間であることを忘れない限り、あらゆる犯罪は正当化されるということなのです。ウクライナでの戦争にまつわるロシア人たちの言説は、この解釈に対して十分過ぎるほどの裏付けを与えています。

 

 次に、映画『バイキング』を見てみましょう。ウラジーミル大王は、歴史上ロシアとウクライナの両方の“先祖”になる人物です。両国の歴史はキエフを中心に展開します。この千年に何か具体的な血統の話があるわけではありません。中世の国家は多民族国家であり、地域によって様々な影響を受けています。しかし、そんなニュアンスは建国神話には関係ありません。

 

 ウラジーミルの神話が重要なのは、それが再生の神話であるからです。犯罪によって権力を得た残忍な異教徒であるウラジーミルが、後に神の恩寵に恵まれ、火と剣で皆に洗礼を施す決心をする。中世の典型的な“野蛮な洗礼者”のイメージで、クローヴィス1世のイメージとそれほど変わりません。しかし、ドイツとフランスはメロヴィング朝の歴史を踏まえて互いの存在を否定しているわけではないのです。だから、このウラジーミルは大きな問題になるのです。

 

 中世の資料におけるウラジーミルの記述は、東方正教会に伝わる、よくある伝記物語です。男性の伝記物語はイエスの生涯(幼少期からの神的召命)か、パウロの生涯(成人後の召命・復活した罪人)のどちらかに従っています。ウラジーミルは多くのゲルマン王と同様、後者に属します。ここで忘れてはならないのは、私たちが扱っているのは宗教文学であるということです。しかし、正教会と宗教教育を国家が押し付けているロシアにおいては、この伝記物語を道徳的な教訓として従うことが合理的なものとなっています。この道徳は、大衆文化にどのように反映されているのでしょうか。

 

ウラジーミルは野蛮な野人として描かれています。彼は罪のない人々を殺し、女性を犯し、その他の残虐行為を行います。愛される支配者の象徴とは到底思えません。しかし、神が彼に触れるやいなや、彼は(映画では)神と一体となるのです。(注:史実として、イスラム教、ユダヤ教、カトリック、ギリシャ正教会の中から何を国教として選択するかが問題になり、ギリシャ正教会を選択した。)

この正教会の選択(注:正教会が為政者を神と認定した事実)は、ロシアのイデオロギーにとって極めて重要な瞬間であり、西欧と“ロシア世界”の間の永遠の分裂を意味しています。しかし、この恩寵は英雄の個人的な功績ではないことに注意しなければなりません。彼は、このGrace ex Machina(注:解決困難な局面に陥った時、絶対的な力をもつ存在「神」が現れ、混乱した状況に一石を投じて解決に導き、物語を収束させるという手法)によって、人間性が変わるというような変貌を遂げることはなかったのです。ウラジーミルが正しい神を選んだだけで、このようなことが起こったとされるのです。この恩寵は誰にも何の救済ももたらしませんでした。それどころか、ウラジーミルのそれまでの犯罪を全て業績として正当化することになりました。

 

 この物語は、醜い人を良い人に変えるという精神的な変化として読まれるものではありません。ウラジーミルの人生において、善と醜は道徳的に変わりのない二つの部分だと示すのです。既に、この映画的な正統派の啓示をプーチンは私たちに言いました。

「私たちは殉職者として天国に行くが、他の人たちはただ滅びるだけだ」

 ロシア正教会の観点では、罪の赦しを保証する恩寵があるので、どんな行為であっても大きな成果なのです。ヨーロッパにおいては、このような宗教的政策はアルビゴイ十字軍以来ではないでしょうか。

 

 そして、ここでドストエフスキーの問題点に戻ります。彼は聖人伝分野に精通していて、その典型的な筋書きに沿って『罪と罰』を構成しました。『バイキング』が、プーチンが公然と示す、そうありたいと考えている支配者の特殊な道徳を顕しているのに対し、ドストエフスキーの『罪と罰』はロシア文学の古典的な“小人”に同じ状況を提供したのです。

 

 この小さな男は暴力によってのみ自分を実現します。同様に、彼は神の介入によってのみ救済されます。あたかも、この世界を個人の善意が存在するにはあまりにも邪悪であるかのように描かれます。そして、神の介入は物事を良い方向に変えるわけでも、道徳的な再生をもたらすわけでも、自責の念や個人の責任への感謝を強いるわけでもないのです。主人公をとりまく世界は呪われたままであり、これがデフォルトの状態なのです。しかし、祝福された者だけはこの状態を受け入れるということです。

 

 祝福された状態というのは、ロシア文化においても、イデオロギーにおいても必要なものです。宗教的には非人道的で不道徳な行為の奥底にさえ、神の恩寵を見出すことができる能力ということです。この観点からすると、狂人こそ聖人であり、善が存在しないところでも善を見ることができる才能を授かっているのです。

 これがドストエフスキーの示す“謎のロシア魂”の人間性です。たとえ恩寵の影に身をまとっても、闇、絶望、猥雑さ、暴力は問題になりません。この恩寵は、決して世界を良い方向に変えたり、重大な問題を解決したりするものではなく、全てを崇高な計画の一部として受け入れられるものなのです。

 

 繰り返しますが、ドストエフスキーやロシア文化そのものを忘却の彼方へ追いやろうという意味ではありません。しかし、明白な危機が迫っています。ロシア文化は今やソフトパワーとプロパガンダのもう一つの源として機能しているのです。それは多くの場合、ファシスト的政策と侵略政策を正当化するものなのです。全体主義の中では、文化的規範は体制の下僕としてのみ存在します。ポストコロニアルのレンズの下で再解釈された何千もの作家は言うまでもありません。

 

 20世紀にはロシアが第二次世界大戦で勝利したため、この修正は行われず、ヨーロッパにおけるスラブ学が形成されました。しかし、ロシア文学をポストコロニアル的に正しく見直さなければ、この戦争で押し付けられた“兄弟愛”から発せられる何百もの植民地化、半同化に苦しむ声に気付くことさえできません。この修正なくして、ロシア文化の理解を真剣に語ることはできないはずです。作者個人が責任を負うものではありませんが、それはあらゆる学者や評論家の知的責任ではないでしょうか。

 

オスタプ・ウクライネ


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コメント: 10
  • #10

    枯れ尾花 (木曜日, 08 9月 2022 21:33)

    中々、書いてあることを理解するのは難しかったが興味深い論考でした。
    文章の中で「ロシア人は最悪な状態になるほど人間らしくなることができるという、確立した価値観のヒエラルキーを持っている」という一節があるが、私はこのような状態に陥った時の人間こそ、余計なことは一切考えないしやらない、ただ使命のため欲望のため生きてゆくという一種の純粋さが本来の人間性を体現できるのだと言っているように思えました。
    闇、絶望、猥雑さ、暴力といったものにすら神の恩寵があるという宗教観、すべてを崇高な計画の一部として受け入れる、ヒューマニズムなどとという概念は入り込む余地のない確固たるものがあると感じました。
    そりゃ侵略も正当化できるやろうな。
    ところで、ロシアは世界各国では断トツに自殺率が高い国だったと記憶しているが、このような価値観を自身のものとして受け入れられない、耐えられない国民が多いからだろうか?中国や北朝鮮はどうだったっけかな?

  • #9

    まいこ (木曜日, 08 9月 2022 21:33)

    妄想族たけさん、貴重なサイトの御紹介ありがとうございます。グッビオのオオカミさん、横浜liveでのご質問に繋がる解説、8/6のコメント欄と共に拝読しました。

    『罪と罰』、ラスコーリニコフは「犯罪者が人間であることを忘れない限り、あらゆる犯罪は正当化される」に沿う主人公ですが、ソーニャの愛を認めるラストから「犯罪の背後にある人間性を認めることが重要」という風に読んでいたように思います。つい『蜘蛛の糸』の発想で読もうとしてしまうのかも。

    「全体主義の中では、文化的規範は体制の下僕としてのみ存在します。」国教としての正教会も、世界的文学も、権威の後ろ楯に。「文学の毒」という言葉も想起します。

  • #8

    ごま太郎 (木曜日, 08 9月 2022 17:06)

    「低俗だ、何もかも。国民性まるだしじゃないか」(カラマーゾフの兄弟)

  • #7

    リカオン (木曜日, 08 9月 2022 12:57)

    #6 おくさん
    >世界の一つ一つの国に、その歴史とそこから生まれた思想があって、他国から理解されなくてもそこの国民はそれを常識として生きている

    それは感じます。
    韓国の恨とか他国に支配されても負けない気持ちを表していたり、歴史が思考に影響を及ぼしているのだなと思いました。

    千と千尋のカオナシの意味を宮崎駿氏がアメリカ人に尋ねたら「なんか深い意味がありそうだけどわからないや」と答えたが、ヨーロッパ人に尋ねたら「あれは僕たち自身を表している。人の言葉でしか物が語れない姿を描いている」とか答えたそうです。宮崎駿氏はヨーロッパ人は日本人と同じ感覚があると思ったとか。
    李登輝は日本人の書く書物は深いとか言っていただいたそうですが、(台湾論?)
    ここまでは日本人に対するお褒めの言葉ですが‥。

    しかし今日のコロナで煽られたら怯え、旧統一協会に牛耳られ、国民の8割が女性天皇に賛成なのに実現できない国はそのうち権力の縛りに対抗しない畜群思想になりそうだ。エッもうなってる?

  • #6

    おく (木曜日, 08 9月 2022 10:28)

    『犯罪者が人間であることを忘れない限り、あらゆる犯罪は正当化される』なんて思想を持つ国があるんだ。
    日本の「強固なムラ社会同調圧力」思想にも驚いて嫌気が差したけど、これも酷いね。
    色んな国があるんだなあ。
    世界の一つ一つの国に、その歴史とそこから生まれた思想があって、他国から理解されなくてもそこの国民はそれを常識として生きているわけだ。
    こんなんじゃ、グローバリゼーションなんて絶対無理だよ。

  • #5

    ネモ (木曜日, 08 9月 2022 06:48)

    一言でいうと、悪魔崇拝のような印象を受けました。

  • #4

    リカオン (木曜日, 08 9月 2022 00:42)

    今さらながら、隣国の心情、心の動きは知っておく必要はありますね。中国や朝鮮は比較的知る機会がありましたが、ロシアは手薄にしていました。妄想族たけさんには良い機会を与えていただきました。

  • #3

    リカオン (木曜日, 08 9月 2022 00:27)

    若い時「罪と罰」をその実存と迫力に圧倒されて一気に読んだ記憶がある。しかし、主人公のラスコーリニコフは精神的な再生を果たす事なく、罪を認め罰を受け入れて終わる。
    彼に尽くす心の清らかな娼婦の愛だけが救いとなっていた。

    ドストエフスキーの評伝では、作品に登場するアル中の救いのないオヤジがドストエフスキーそのものだと言う知人の証言などが紹介されていた。

    ノルシュテインのアニメ「話の話」にはロシアの田舎の小さな家の庭でアル中の男が日がな一日酒を飲み続けている。その男はいつの間にかいなくなる。アニメの解説では男は戦争に行ったまま帰って来ない(亡くなった?)事を表現しているというのを読んだ。

    あまりロシア文化には触れたとは言えないので短絡的な結論をくだせないが、少なくとも私が触れたロシア文化は救いがない結末であった。こちらの記事を読むとそれがデフォルトで、その状態をまんま肯定するのがかの文化という事でしょうか。

  • #2

    グッビオのオオカミ (水曜日, 07 9月 2022 23:30)

    なるほど、興味深いテーマですね。
    映画「バイキング」の方はキチンと見ていないのであまり語る事は出来ませんが、そのドストエフスキーですね。「罪と罰」私は前作「地下室の手記」の知的ニヒリズムの主人公に「一人称」から「二人称」「三人称」を与えた作品だと解釈しています。「白痴」の主人公は一つのモデルになります。
    ドストエフスキー自身が確か、革命運動に関わったとかで逮捕され、死刑宣告される。たまたま「恩赦」で死刑を免れ、シベリアの流刑の地に送られそこでいじめられ辛い労役に耐えつつ新約聖書をひたすら読んでいたそうです。
    「死の家の記録」はその時の体験を元に書いたものでしょうし、「地下室の手記」の主人公は当時の「合理主義」のニヒリズムを書こうとしていたのではないかと思います。
    結局「罪と罰」はラスコーリニコフの金貸し老婆とその妹を殺害した後、罪悪感にさいなまれ、知り合った娼婦のソーニャの信仰心と無償の愛によって、神への帰依と公共の罰を受けいれる…。そんな話だった様に思います。
    ドストエフスキーは「悪霊」で近代的な革命の精神や合理主義の精神に憑りつかれた病的な若者達を描き、「カラマーゾフの兄弟」は未完ながらも、ドストエフスキーの中の「ガサツな生活人」と「近代的合理主義」と「信仰心」の三人の兄弟を描く事で、ドストエフスキーの葛藤を昇華したのだと思います。特に三男の信心深いアリョーシャは「白痴」の主人公や「罪と罰」主人公の回心物語を経てはじめて到達したキャラクターだと思います。
    ドストエフスキーは私生活と理想に清濁併せのみつつ葛藤する作家という気がします。
    ロシアの論理は先日の横浜の講演でグレンコ・アンドリー氏が非常に興味深い事を言っていました。
    ①ロシアの理想と現実
    確かに正教会のロシア、ビサンティン帝国の末裔「第3のローマ」のロシア、それはある。そこにすべてを救済する。しかし、それはあくまでも観念や建て前の話で現実のロシアの行動の方法論は常に「モンゴル帝国チンギス・ハーン」。皆殺しにし、反対者は粛清する。
    ②ロシア正教会の変質
    ロシア革命によって、迫害され弾圧されたロシア正教会。それをスターリンの肝いりで1943年に復活させる。この時にソビエトに従順な教会としてKGBの管轄になった。グレンコ氏はこれを「KGB正教会」と表現していた。
    プーチン大統領も、現在のキリル1世総主教もKGB出身で現在のロシア正教会は19世紀の正教会とは違い、ロシア正教会の上層部はほとんどKGBの階級を持っている。プーチンにとっては「部下」なのだ、という訳ですね。
    思えば、ロシア文学も有名なものは19世紀辺りで、途切れる印象があります。
    ソビエト時代の作家ソルジェニーツインは収容所群島やイワンデニーソビッチの一日など「反体制的」な作品が多いし、作曲家のショスタコービッチは時代と時の権力者の要請に答えつつも、どこか「葛藤した痕跡」があります。
    多分それはロシア革命の分断と無縁ではないだろうと思うのです。
    私はロシアが力と拡張に力を使い、外に敵を作り、プロパガンダしつつ隣国に干渉しつつ物事を進めるやり方を、ロシアのチンギスハーン以来の元々の文化や、西ローマ諸国に対する東ローマのプライド「第3のローマ」が西側諸国への対抗心や、またそこに「ソビエト連邦」が「ファシストを打倒した人類を救済した偉大なソビエト・ロシア」の物語のプロパガンダと、上層部の政治的なパワーバランスが混ぜ合わさり、現在の行動に至るのかと思う次第です。
    「偉大なソビエトロシア」の軍の聖堂を建て、「スターリン」を聖者とする。
    モラルさえ、政治の手段と化す。
    それは帝政ロシアの拡張主義よりも、もっと堕落した、無道徳な状態ではないかと想像します。
    あまり、答えになってないかも知れません。長文失礼しました。

  • #1

    ねこだるま (水曜日, 07 9月 2022 23:12)

    長いけど割りとひといきで読めました。

    中国人は複雑怪奇で頑迷だけど、ロシア人も厄介な頑迷さを背負っているのだなぁ、と感じました。

    印象に残ったとこ。
    >ロシア人は厳格な道徳の枠組みの中で生きているのです。つまり、ロシア人は最悪の状態になるほど人間らしくなることができる、そのような確立した価値観のヒエラルキーを持っているのです。

    なんか深い闇を抱えてますね。