投稿者:グッビオのオオカミさん
『やっぱりこういう特攻体験と戦後生活とかいう課題を背負っていますと、なにか自分が途中で妥協したり、結論を逃げ出したりしないためには、大きな、簡単に妥協を許さないようなでかいものが、どうしても相手にないとね。(中略)もちろん、そういう意味の信仰というのは、結論とか救いとかじゃなくて、出発なんだ。永遠の出発なんだ。』
(中公文庫「特攻体験と戦後」p152〜153)
唐突ですが、このセリフは島尾敏雄(著書:魚雷艇学生)と吉田満(著書:戦艦大和ノ最期)の二人の特攻を体験した作家による対談「特攻体験と戦後」に書かれている、生き残った戦艦大和の乗組員、吉田満の発言です。
カルト問題を見ていると、逆に「宗教って本来は何か?」または「"神様"を"信じる"とはどういう状態か?」と、宗教のそもそも論を考えたくなって来ました。
カルトとは何か?だったら宗教とは何か?
紹介する記事の対談は宗教学者の島薗進氏とノンフィクションライターの最相葉月氏によるものです。
最相葉月氏は6年にわたり135人のキリスト教信者を取材し「証し」という本を上梓します。
なぜ人は神を求めるのか?
これは別に、キリスト教だとかに限りません。
仏教の各宗派にも、阿弥陀仏に、大日如来に「何か」を求める訳ですね。
方法論は読経か、坐禅か、宗派によって違うでしょうし、仏教学もまた学問的な研究対象のジャンルの一つでしょう。
宗教と言えば、狂信や迷信を思わせ、つい考える事や触れる事を避けてしまいます。
しかし、カルト問題に日本が解決しにくく、はびこりやすい背景には宗教問題をずっと"避けてきた"事が理由にある様に思います。
神が人を作ったなら、人は何故間違いを犯し、不完全なのか?
これに対して、人に自由意志があるのは、神は人に自分の意志で成長して欲しかったからだ。
神学書にそんな事が書いていた気がします(出典はちょっと失念しました、すいません)。
いつだったか観た映画版「カラマーゾフの兄弟」で長男ドミトリーが裁判の誤審により父親殺しの無実の罪を着せられ、シベリアに送られる場面がありました。三男アレクセイにドミトリーは言います
「たとえ地下の牢屋に居て、太陽が見えなくても、太陽がある!空には雲があり、その上には太陽があるんだ!」
少しウロ覚えですが、確かそんなセリフだったと思います。しかし、目に見えない希望とは、そういうものだろうと私は思います。
神などの大いなるものと関わりたい…例え自分の人生が惨めなものでも、それは大いなる何かの一部である事、その意味を噛み締めたい、それはきっと最初に紹介した、戦艦大和の生存者、吉田満が言おうとしていた事だろうと思います。
興味のある方は下記の最相葉月氏と島薗進氏の対談記事を読んで見て下さい。
記事自体は、それほど難しくはありません。
もし、何らかの感想を書きたくなれば、ご自由にお書き下さい。
【なぜ「神様はいる」と信じられるのか…無宗教のライターが135人のキリスト教信者を取材した結果 宗教学者の「楽になるから」という回答の真意 | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)】
https://president.jp/articles/-/69466?page=1
【「無宗教なのが当たり前で正常」なのか…135人のキリスト教信者を取材したライターが感じた日本の現実 「宗教二世」という言葉の裏にあるもの | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)】
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大阪の一会社員 (土曜日, 01 7月 2023 09:43)
#15くれは様のコメントを読ませていただいて、
新型コロナ騒ぎにおける…
一連のスポットを浴び続ける方々と同じではないか、と思ってしまいました。
科学的ではないなあと思っておりましたが、カルト的だったのですね。
くれは (土曜日, 01 7月 2023 09:29)
現時点で私が知っている、まともな仏教寺院と比較して学んだ、カルト教団の見分け方。
1 やたら集金する。その金額はべらぼう。
2 ネズミ講の如く、横の信者を増やそうとする。(紹介しても何も貰えないのでネズミ講より酷いかも)
3 不安を煽る。
4 お金を払うと救われるとか、お金を払えばより霊的に成長するとか説く。大体お金を払えば人格、魂の成長が出来ると考えるのがおかしい。
5 教団の歴史が浅い。仏教で言えば少なくとも鎌倉時代にはあった宗派に興味を持ったほうが良い。まがい物は歴史に淘汰されます。
6 政治に介入したがる。既に介入している。
7やたら現在進行系の教祖を前面に出す。
こんなところです。
グッビオのオオカミ (土曜日, 01 7月 2023 02:23)
リカオンさんへ
なるほど、栄光なき英雄たちですか。私も読んでました。
例えば、アフガニスタンで医師でありながらも、治水工事に取り組み続けた医師、中村哲氏は地味な役割を粛々とこなす姿は本当に勇敢で偉大な方だと思います。
実は彼はプロテスタント教会の信徒だったらしいです。あの取り組みは彼なりの信仰心の現れでもあるでしょうし、人として、医師として、良心に従ったのだと思います。
土着の信仰は…多少は影響ありますね。
クリスマスのイエスの生誕を祝う降誕祭は、元々冬至の12月23日を過ぎた時に、木を飾って祝う習慣が、あったのでそうしてるだけです。
ちょうど、少しずつ日照時間がながくなる時に、闇を払う希望を暗示する事から、クリスマスは12月25日になりました。
復活祭(イースター)は、春分の日の次の満月から一番早い日曜日をそこに設定しています。
冬から新年の春が、若葉も芽吹き「死からの再生」を暗示するからと、言われています。
マリアに関しては、詳しく言うと本が書けてしまいます。
ただ異端と呼ばれる教えの急所になったとは聞きます。理由は沢山あると思いますが、少なくとも男尊女卑マッチョイズムとは両立しそうもありませんね。
グッビオのオオカミ (土曜日, 01 7月 2023 00:47)
くれはさんにコメントして頂いて良かった!
私の言いたい事を的確に仏教の立場から、返答して頂き非常に嬉しく思います。
結局は理解を深めるためには学ぶ部分が必ずあるし、黙想や祈りもまた、そういう根拠にも裏付けられる部分があります。
霊威と言われるところも非常に大切です。
発想の転換というのか、感情の強さとも違う、何か。
畏敬の念と敬虔さ、とでも言いましょうか。
新約聖書は人が書きました。イエスの伝記である福音書も人が書きました。
しかし、理屈や知識で分かる様には決して書かれていないのです。
"神秘"が根本に含まれます。神秘を根本に据えないものは、編纂時に採用され無かったと言っても過言ではない位です。
そして、怪しげなカルト宗教に入る位なら、伝統的な宗派(仏教やらキリスト教やらを問いたいのでもありません)をまずは学んで欲しいと私も思います。
くれは (金曜日, 30 6月 2023 21:47)
グッビオのオオカミさん、おっしゃる通り、興味があるならば、宗派の教えは学んだ方が良いでしょう。私も仏教は好きなので、いろいろな宗派の僧侶が書いた本は読んでいます。自分の家の宗派も素晴らしいとは思いますが、これはちょっとおかしいぞと言う部分もあります。
他の宗派の教えを学ぶと、仏教の全容が見えてくるのでだんだんと理解も深まってきました。理解したいのであれば、やはり学び続けないといけないです。
この記事の人が言うように、「楽になるから」というのはあると思います。私は仏像の前に座って時に辛いことを言葉で述べることがあります。仏像は何も喋りませんが、実際すごく楽になり前へ進む活力を得ています。
そもそもですが、神とか仏、超常的な何かという存在を肯定できるか否か?が、宗教、信仰と言うものを受け付けるかどうかの分岐点かと思います。
例えば仏教を研究している学者の意見の中には、日本に伝わった仏教は全て大乗仏教なので、全部偽物だと説く人がいます。釈迦の直接の教えは小乗仏教だからです。
しかし、私は釈迦以前に仏がいたという解釈です。その仏が人間釈迦をこの世に齎した。日本に伝わった仏教も何かそういう存在がその時代時代において、能力のある人に託したのではと考えます。
日本人がカルトに嵌りやすいのは、その背景には親が正しく理解していない、宗教と言うものを考えたことがないということはあると思います。それと本を読まなくなったのも原因でしょう。
コメントを書いていて気づきましたが、私は仏教の経典や教え、説法などから興味をもった訳ではなかったです。
目には見えないですが、なんと説明していいか分かりませんが、確かに何らかの力を宿している何百年も経っている仏像の霊威、力のようなもの、その存在を素直に受け入れられたことがスタートだったので、教祖を崇めるような宗教団体に興味が湧かなかったのが、ある意味幸運だったのかもしれません。
カルトに興味を持つ人がもし身近にいたら、仏教であれば、何百年、千年以上前からある宗派に興味を持った方が良いと伝えたいですね。
リカオン (金曜日, 30 6月 2023 21:41)
#8 グッビオのオオカミさんへ
キリスト教のような一神教であっても自然崇拝はあるのは分かりました。
私はキリスト教、イスラム教、仏教などの宗教とそれ以前の土着の宗教との関連に興味があって、例えば元々女神信仰のあった地域ではマリア信仰に姿を変えて残っているなんて話に関心があります。
もっともキリスト教の外見を借りた反日儒教は御免ですが。
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もう一つの聖者になぞらえる話については続きがあります。
ヤングジャンプで連載していた「栄光なき天才たち」というマンガが好きで、主人公たちは讃えられる事は無くとも自分の信念を貫いている姿に、賞賛はいらない。自分が信じる価値をつき進む姿に憧れたし、そのような姿を理解できる人が多くいたから、ヒットしたのだと感じました。
ところが、今の日本はルサンチマンだらけになり、立派な行いをする者、誹謗中傷を受けながらもじっと耐えて努力する者を引きずりおろそうという、目も覆わんばかりの惨状になれ果てました。
欧米の映画で見るような、立派な行いをした市井の人に聖者や偉人になぞらえて、評価する事は、ルサンチマンの勢いをそぐには良いのかなと思ったからです。
昔は日本も時代劇の主人公やヒーローが聖者や偉人になり代わり、社会正義の模範になっていたのかも知れませんが、正義の味方も悪人も価値相対主義にまみれて前面に出せなくなったのも関係するのかな?
こんな事を書いていても枠沈を打った人から見たら、未接種者は単なる悪の権化かも知れませんが。
こういう時こそ、寅さんが現れて、威勢のいい啖呵を切って欲しいですね。
あれ?宗教のスレッドだったのにいつのまにか寅さんが‥??
グッビオのオオカミ (金曜日, 30 6月 2023 20:05)
麻雀(笑)。でも、ありますよね。
何をしても、上手く行かない時と、何しても勝てる時。トランプや人生ゲームでも。
オセロや将棋など'運"じゃないものは、判断力や思考力や集中力の問題なので、そうはなりませんが。
スレッドの宗教問題から、脱線しました。
通りすがり (金曜日, 30 6月 2023 13:50)
麻雀をしてると、殆どの人が、有神論で語ります。
「場所が悪い」「引きが強い」「ツモの流れが悪い」等、非科学的とされることをバリバリの理系の人までが大真面目に口にします。
やはり、偶然の一致を何か(例えば神)のお陰というように感じることは、誰しも持ち合わせていると思います。
グッビオのオオカミ (木曜日, 29 6月 2023 23:25)
リカオンさんへ
自然に超越的なものを感じるのは、多神教だけでもありません。
アッシジのフランチェスコという聖者がいました。自然を賛美する太陽の讃歌という詩を作ったとされています。
彼は、元々金持ちの商売人の息子でしたが、他者を犠牲にして豪華な暮らしする事に虚しさを覚え、托鉢僧として生きる道を選びます。
彼は自然を愛しました。
自分も自然も共に、神が創り上げた兄弟姉妹という思想に行き着きます。
キリスト教は人間中心主義だと考えられ勝ちですが、元々これは詩篇などの旧約聖書から、連綿と続く視点で、フランチェスコだけが特別でも無いのです。
フランチェスコはキリスト教という一神教ですが、しかし、自然にも人間にも生きているあらゆるものに、神を見たのでしょう。
しかし、そう考えると自然とは不思議なものです。
どこか人類を超えた"神秘"への畏敬の念を、掻き立てます。
もう一つの聖者になぞらえる、ですが。
聖者とは本来は「信仰の模範」として、その姿にならうものでしょう。
実は聖者にも"定義"がありますが、これは割愛します。
まあただ、あまりに安易に聖者になぞらえる発言を連発するのは、私はあまり関心しません。
私はそれ位なら足元をしっかり見て下さいと言いたいです。
ただ国や時代によってはそれが冗談交じりの会話の習慣となっている場合もあるかも知れませんし、外国の生活習慣までは何とも言えませんね…。
グッビオのオオカミ (木曜日, 29 6月 2023)
くれはさんへ
なるほど、くれはさんらしく真面目に取り組まれている様子がよく伝わります。
"宗教と信仰を分ける"は大切な話です。
しかし、微妙な話だとも思います。
例えば、仏教の教典でも必ず、発祥の由来があり、時代状況や地域性や国民性に左右されつつ、大陸や半島から日本に伝わり、伝承されて来たと思います。
これは、各種武道や茶道や華道にも通じると思うのですが、各自の主体性とはまた別に、我流に流れないためには、初めは一定の伝統的な教えを知る必要があるはずです。
キリスト教に関して言えば、カトリック教会や東方の正教会などは、司教から司祭。司祭から信徒への洗礼やミサなど「秘跡」を通した、祝福によるリレーという側面もあります。
そうして歴史を超えて、祝福によって伝承された共同体という側面もあるのです。
ただ、各自の主体性が無くなる訳では無く、ミサのリレーを通して、教皇につながり、教皇は昔日の使徒から代々継承されています。
一方、プロテスタント諸派は基本的に「聖書のみ信仰のみ」ととらえます。
その分、読解力と主体性は付きますが、ある意味、我流に流れやすく、自我を絶対視する傾向があります。
我流にながれれば、それはそれでカルト化する危険が増す部分もあるでしょう。
宗教と信仰の区別は極めて微妙ですが、本当に大切な論点だと思います。
リカオン (木曜日, 29 6月 2023 21:02)
信仰と言えるか分かりませんが、お地蔵さんや道祖神、山の中で見つけた小さな祠などを見つけると、手を合わせずにはおれない。歴史的に我々の祖先が、超自然的な存在を感じた場所や物事なのだと考えると、畏敬を感じる。これは日本的な八百万神、多神教的考えだろうか。
欧米の映画などを見ると、登場人物が良き行いをすると、他の人が聖書の偉人や聖人になぞらえて、〜貴方のした事は○○の故事の聖○○の行いと同様〜という風に行いの意義づけ、讃える。
→こういった事は信仰者にとって楽な事なのでしょうか?
善行を意義づける習慣は良い事のように思うが、お年寄りを助けるために若い人も枠を打ちましょうなどに悪用されるかな?
くれは (木曜日, 29 6月 2023 11:59)
個人的には、神社で祀られる神様、祀られてはいないその他八百万の神々、お寺の仏様は存在すると実感としてあります。もう人生のかなり早い段階でいるなと思っていたので、いるのが普通という考えで生きてきました。
くれは (木曜日, 29 6月 2023 11:16)
私の家は、先祖から受け継ぎ祀っている神仏が数体あります。寺ではないです。どれも霊威を感じる古像です。両親の話によれば2歳くらいから仏像が好きで、寺に連れて行くと、遊園地より喜んでいたと言ってました。
今でも観音様、お稲荷さん、天神様、弁天様、お不動さん、阿弥陀様、お釈迦様、荒神様、先祖神などに手を合わせ信仰を切らないよう努めています。どこぞの宗教団体に所属し、献金システムに組み込まれていることもありません。
宗教と信仰は分けて考えた方が良いです。私の場合、上記の神仏と私の間に布教する人間はいません。個人対神仏の関係です。無論、各仏教宗派の偉大な先人、弘法大師、伝教大師、日蓮上人、道元禅師、親鸞聖人、法然上人などなどそういった人達には敬意を抱いています。
幕末以降に出来た宗教団体(神系・仏系)は集金システムがしっかりしているのでは?と認識しています。宗教、信仰心には人が生きていく為の、壁を乗り越えるための知恵、仏教的に言えば苦しみから脱却するための方法論などは大変為になります。と同時に近代に現れた宗教団体の中には集金システムに特化した集金団体もあります。利益を上げるために組織化した連中です。そう言う所は危ないところも多いと思います。
私は宗教(仏教)から、道を踏み外さないこと、心の安定を得る事、謙虚さを学ぶこと、感謝の気持ちを忘れないこと、生きている間に少しでも世間や回りの人の為に、仕事や学んだことを通じてお役に立てる事をすることなどを学ばせて頂きました。
記事の人は私は自分で無神論者と言っていますが、本当にそうでしょうか?私が思う無神論者とはキリスト教で言えば、徹底的に教義について学び、聖書を読み込み、牧師さんの話を聞き、イエス様の生涯を調べ、学び、教会に足しげく通い霊威について触れ、考察し、その結論として「神はいない」と結論付けた人が無神論者だと思います。
殆どの日本人は無神論者ではなく、無関心(神)論者だと思います。
枯れ尾花 (木曜日, 29 6月 2023 09:09)
天皇陛下に対し「大いなるものと関わりたい」という感覚を抱くことはあります。
…また、ヘルマン・ヘッセの「デミアン」という小説には違った角度から神や善悪について考えさせられました。
さとがえる (木曜日, 29 6月 2023 06:00)
自分は無宗教なのか、今一度考えてみました。
千本通りさんの言われるような幽霊はいる等の体験はないのですが、
受験の時に湯島神社にお参りに行き、成果が出たことが信じた体験ならばそれかもしれません。
あとどうにも仕事がうまくいかない追い込まれ気味のときに、近所でお祓いした結果、多少はましになった(少なくてもそう思えた)ことを考えると、それも体験かもしれません。
今も子どもの健やかな成長を願い、初宮参りでいただいたお札に日々祈っております。
日本人は八百頭の神の信仰の意識がまだあり、特定の神を信じる信仰である宗教が理解されにくく、結果的に自分は無宗教だと思う人が多いのではと感じました。
千本通り (木曜日, 29 6月 2023 02:08)
なぜ「神様はいる」と信じられるのか? それはプライベートな体験から生じるわけで、例えば「幽霊はいる」というのも、実際にその存在を信じる体験をした人にしかわからない。誰かに語ってわかるものだろうか? お釈迦様だって沙羅双樹の下で悟られても、それを人に語ることをためらっていたではないか? 無宗教な人は未だそのような体験をしていないだけです。