投稿者:ねこ派さん
『動物裁判ー西欧中世・正義のコスモス』(池上俊一著 講談社現代新書)
本の紹介です。
実は、まだ、ちゃんと読んではいないのですが、このサイトで、次の投稿スレッド及び寄せられたコメントを読んだり、また私自身が、そこにコメントを寄せたりしているうちに、思い出しました。
そういえば、自宅の本棚に、この本、あったな、と。
・中川淳一郎氏『「かわいい熊を殺すなんて!」と抗議する人々 農家の人々の被害を理解していますか?』
・「上げ馬神事」炎上 多度大社に爆破予告
・≪考察≫ 東京でもクマ出没。「クマ権」を主張する人たち
・秋田のクマ3頭「なぜ殺した」苦情殺到
『動物裁判ー西欧中世・正義のコスモス』では、中世ヨーロッパで行われていた、動物裁判のことが書かれています。
本によると、動物裁判は、13世紀から17・18世紀までの数世紀間、ヨーロッパでは常態として、つまり普通のこととして、行われていた。
動物裁判とは何ぞや?
野生の熊やイノシシが農作物を食い荒らしたり、人間に危害を加えたりするようなら、すみやかに捕獲・殺処分という手立てで駆除するのが普通でしょう。
しかし、中世のヨーロッパでは、そうした野生動物をまずは捕獲して、野生動物を被告人、あるいは被告として、裁判所の法廷に連行し、裁判にかけていたのです。
原告は、被害者だったり、あるいは検察官だったりであり、そして、ちゃんと裁判官もいた。
もっとも、原告も検察官も裁判官も、人間です。
また、被告人あるいは被告の動物については、弁護士が付きました。もちろん、弁護士は人間です。
ごく大ざっぱに言えば、今現在、裁判所で行われている裁判において、裁判官・検察官・弁護士・原告は人間、けれども被告人あるいは被告の席には、野生動物が据えられている、というのを想像するといいでしょう。
それが、動物裁判です。
そんなのを、大真面目に、やっていた。
中世ヨーロッパでは、かかる動物裁判が、普通に行われていたのです。
なので、判決も、被告人あるいは被告の野生動物に対し、しっかりと下されていた。
ヨーロッパって、昔は、不思議なことをやっていたのですね。
もちろん、今現在、ヨーロッパでもほかの地域でも、もちろん日本でも、動物裁判なんかは、行われてはいません。
しかし、動物裁判の思想は、コインの裏表のように、ひっくり返った形で、今なお、存続しています。
環境保護・自然保護の要請がますます強くなっている昨今、昔の動物裁判とは逆に、原告・検察官の席に、野生動物が着いていませんか?
また、環境保護・自然保護の立場から、弁護士が野生生物を擁護していませんか?
上記の投稿スレッドで取り上げられている、クマ駆除に抗議する人達などは、原告・検察官の席に着いた野生動物の応援団であり、また野生動物を擁護する弁護士のシンパでしょう。
この機会に、私は、ちゃんと『動物裁判ー西欧中世・正義のコスモス』を読んでみよう、と思っています。
なお『動物裁判ー西欧中世・正義のコスモス』は、大分以前、ゴー宣シリーズに顔を出したことがある、あの評論家・呉智英さんの著書において紹介されていたもので、私は、それを読んで、知ったのでし
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コメントをお書きください
近藤 (土曜日, 11 11月 2023 05:48)
紹介ありがとうございます。
私も当時読みましたが忘れてます。
再購入します。
あと。文末が切れてるかも?
リカオン (土曜日, 11 11月 2023 09:13)
私も持っていたはずですが、なぜ動物を裁判にかけたか、全く理解できずに終わったようで記憶にない。
豚なんか犬やイルカと同じくらい賢いと思う時もあるが、全く同情されずにお肉にされる。注射器を構えて豚を追う私をもう一頭の豚が邪魔しよう、仲間を守ろうとしたので感心しましたよ。
でもこの本では豚も裁判にかけられた例があった記憶が‥。取り寄せて読んでみようか。
チラと昨日の新聞見るとクマ対策している県に毎日駆除抗議の電話が平均4,5件あり、30分近く訴えるものもあるらしい。県外からとみられる電話も多いとのこと。
小説「シャトゥーン ヒグマの森」を読んでいたら人肉の味を覚えたヒグマが生きたままの人をボリボリ食べるシーンがあってエグかった。人間なんか襲うの簡単だし一度味を覚えたら何度でも襲いそうだ。
電話かける人はクマを守るために森を整備する事に参加して欲しい。野口健も同じ事言ってたよ。
枯れ尾花 (土曜日, 11 11月 2023 14:47)
実はタコは9つの脳を持っています(8本足の付け根に1つずつあるそうで、それと頭部のをあわせて9つ)。無脊椎動物の中ではずば抜けて知能が高いことが知られています。以前、観たテレビ番組で瓶の中に入れられ閉じ込められたタコが、その回して開ける蓋を水中から吸盤を使って器用に回して開け外に出てくる映像がありました。哺乳類に匹敵するくらいの賢さがあるとのことです。また、夢も見ているとのこと(彼らは今いる周囲の環境の色に自分の表面の色を似せるのですが、眠っているタコが透明の水槽の中で茶色やらに変色しているのはおそらく夢の中でそのような環境にいるからだろうと研究者は話されていました)。鏡で自分の姿も認識するそうです。
私は、このことを知ってから茹でダコを見る時、「あ~タコさん、苦しかったやろうな~」と思うようになりました。タコライスやたこ焼き食べる時もこれまでとは違う気持ちで頂いております。
枯れ尾花 (土曜日, 11 11月 2023 20:34)
環境保護・自然保護の立場から野生動物を擁護、更に知性のあると言われるクジラやイルカはより擁護の対象となるのだな。それやったらタコも擁護せんとな。そしていつか、たこ焼き食べられなくなるのかいな。
リカオン (日曜日, 12 11月 2023 09:22)
•知性で食べる食べないを線引きしたら、クジラはNG(ブタ、タコも含まれるのでは?)
・宗教で線引きしたら
キリスト教は蹄が割れているのは食べて良いで牛、ブタはOK
イスラム教はブタNG
ヒンドゥー教は牛は神聖、ブタは不浄、肉は基本的にNG
・ベジタリアンは菜食主義で肉卵食べず
・ヴィーガンは動物から搾取しないで肉卵NG。さらに蜂蜜や皮も使わない
う〜ん。やはり人間は他の生き物の命を奪って生きる罪深き存在を認めて、他の生き物に感謝しながら食べたり利用するのがいいと思う。その方が我々は自然の一部に組み込まれているのを認めて謙虚な気がする。
知性があるからNGとか動物から搾取しない私はいい人とか、逆に彼らの大好きな生命とか生態系とか自然の仕組みを無視している。高みから居丈高に生き物や生き物を食べる人達に指示するのって、神様にでもなったつもり?傲慢さを感じる。
kindleでこの本読み始めました。
いきなりブタが子どもを食べた事件?の裁判で始まりビックリ。ブタやイノシシに向かって来られた経験のある自分はちょっとヒヤリ。確かにごくたまに農場主がブタに食べられる事故あるもんね。
ねこ派 (月曜日, 13 11月 2023 13:33)
読み進めている途中です。
半分あたりまで、到達しました。
著者は、本書の第一部で、資料から拾った動物裁判の事例を次から次へと、多数、紹介しながら、自らのうちで混迷が深まっている、との感想を述べている。
そりゃ、そうでしょう。人間に危害を加えた動物を、人間と同じく、裁判所の法廷に呼び、被告人の地位あるいは被告席に着かせて、人間同様に判決を下し、刑罰を与えたりしているのだから。
法廷では、動物を訴える検察官、動物を弁護する弁護士が、丁々発止の弁論を戦わせたり、証拠調べや鑑定なんかも、普通にやっていたりするのだから。
スレッド投稿では、私は、野生動物、と書きましたが、これは不正確で、本書では、動物裁判にかけられているのは家畜の豚、牛、馬、犬、猫、などであり、彼らが被告人あるいは被告になっている、と紹介されています。
もっとも、その家畜は、現代の我々がイメージする家畜とは全く違っていて、中世ヨーロッパのそれは、野生を全然失っていません。野生動物さながら、と言っていい。豚などは、牙を生やしており、これはほとんど、野生のイノシシですよ。
そんな豚が、飼い主の子供を食い殺して、動物裁判にかけられる事例が、13世紀から18世紀にかけてのヨーロッパには、沢山あるのです。
また、そうした家畜の他に、被告人あるいは被告として、法廷に呼ばれ、裁判を受けるのが、畑や作物を荒らすネズミやモグラなどの小動物や、湖で異常発生したうなぎや、害虫などといった野生生物です。
それどころか、森や氷河といった自然物や、はたまた、人が撞く鐘ー人工物!ーまでもが、裁判にかけられた記録があるという。
なんすかこれ、ですよ。
家畜は一応、飼い主などが裁判所まで連行することが出来ますが、罪科を負うべき(?)ネズミや、モグラや、うなぎや、害虫などをみんな連行するのは到底無理ですし、森や氷河に至っては、どうしようもない。
本書によると、動物裁判を行う裁判所は、国王系裁判所と教会系裁判所の2種類あります。
国王系裁判所では、動物に対し、判決を下したのち、刑罰執行では、人間に対してするように死刑に処したり、火あぶりの如く火刑にしたりします。
教会系裁判所ー教会というのは、もちろん、キリスト教の教会ですーでは、主として裁判所に連行できない動物に対する法廷が開かれます。だから、ネズミや、モグラや、うなぎや、害虫や、森や、氷河などが被告人あるいは被告であり、彼らに対する最終的判決は、伝家の宝刀=破門です。
しかし、破門したからって、彼らによる、人間に対する危害が、収まるかっちゅーの。
それから動物裁判では、獣姦も扱っていて、判決は、大抵、両者ともに死刑です。喧嘩両成敗ならぬ獣姦両成敗。
何で?
というのは、あくまで、現代を生きる我々の合理的な見方です。中世のヨーロッパ人は、動物裁判において、それなりの合理性を発揮していたようなのです。
本書は第一部と第二部とエピローグの3部構成です。
第一部は「動物裁判とはなにか」。
第二部は「動物裁判の風景ーヨーロッパ中世の自然と文化」。
そしてエピローグでは、動物裁判と昨今の自然・環境保護運動との関係が、原告と被告の逆転、というキーワードで語られています。
中世ヨーロッパでは、原告:人間、被告:動物、だったのが、昨今の自然・環境保護運動においては、原告:動物、被告:人間、と逆転する向きがありはしないか? これは、動物裁判とはコインの裏表では? ということです。
さらに読み進めようっ、と。