≪考察≫「公共心が薄い」について

 

投稿者:Tsukaさん

 

共同作業募集の本投稿内容に関係なくすみませんが失礼します。

 

カレーさんが「公共心が薄い」というのはどの辺にご自身でそう感じるのでしょうか??

 

公心が薄くてこんな活動ができるはずがないしカレーさんの様々なコメントを見てもそうです。

 

カレーさん=公共心が薄い、には僕の中ではなりません。

 

失礼かも知れませんが「なぜそう感じるのだろう?」と大変興味深く思いました。

 

公共心とは何だろうか?と今一度考えてみます。

 

 

 

(管理人カレーせんべいのコメント)  

 

「カレーせんべいは公共心が薄い」については、

 

12月19日時点で自分自身でガッツリ話しています。

 

是非とも、今、見てもらいたいです。

 

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=RJ9SB79kLFY&t=3415s

 

 

 

56:55 「公」と「私」について → 公と私の間にある「野望」 

 

・基本的には「怒り」と「笑い」と「仲間意識」が動機

 

・「集団」「仲間意識」からスタート ゴー宣がベースなのでゴールは「公」に繋がる

 

・始めから「公」を目指し「個の連帯」で行うグループとも合流できたら良い

 

 


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コメント: 8
  • #8

    RUIDO (月曜日, 08 1月 2024 11:36)

    #7 通りすがりさん。

    またまた自分の考えになりますが、「イデオロギー」と「公共心」の違いの1つに「人情」があると思います。

    例に出されている話だと(ワクチンの是非は置いておいて)
    「周りの為に、ワクチンを打った人」
    =公共心(人情)はある。
    「周りの為に、ワクチンを打てと言った人」
    =公共心(人情)よりも、イデオロギー優先。

    という印象があります。この辺りの感覚は色んな方の考えを聞いてみたいですね。

  • #7

    通りすがり (月曜日, 08 1月 2024 00:14)

    水を差すようで申し訳ありません。
    私は、このコロナ禍で、みんなのためにワクチンをという公共心を煽る言葉に辟易しました。
    煽る方の公共心はいい加減なものですが、煽られた多くの人は、本当に公のために打っている人が実に多いのです。彼らにとっては紛れもない公共心なのです。公共心とイデオロギーとは、案外近いかも。正義の危うさはよしりん先生の書籍から少しは学んだつもりです。公共心と正義は違うのか、何か難しいです。結論は、私は思考が足らないということかなと思います。

  • #6

    グッビオのオオカミ (日曜日, 07 1月 2024 17:51)

    動画を見ましたよ。
    うん…まあ、分からなくは無いですよ。
    「個」と言った時に、その中に「私」も「公」も「集」も含まれるし、ある程度、地続きなものでもあるでしょう。
    私もちょっと分かる所があるのはイキナリがっつり「公」となると、実感の無いイデオロギーっぽくなるんでしょうね。
    自分の足元から、実感を持ってやりたいというか。またどこか、人は人で自分は自分でもあるものだし。
    出発点が"私"だろうと、"集"だろうと、「ゴー宣」と関わる限りどこかで必ず''公"に通じてますね。
    私はカレーせんべいさんが言う「結果的に活躍する」という発想が良いです。
    で、意見広告運動も100%"公"か?と言われると、そうも言えなくて、現場感覚や生活実感の中の「感情」も入ってました(少なくとも私はそうでした)。その「感情」の部分を私か集か個か公か、どの人格が優先されていたのか、自分でもよく分からない部分もありますよ。

  • #5

    Tsuka (日曜日, 07 1月 2024 11:08)

    カレーさん

    お礼を言うの忘れてました。
    動画拝見しました。
    ご対応ありがとうございました^ ^

  • #4

    Tsuka (日曜日, 07 1月 2024 10:37)

    記憶が曖昧なので間違っていたらすみません。

    昔、大江健三郎が「私の集積が公になる」というようなことを述べており、それに対して小林先生が「私+私+私=公にはならない」と述べていたように記憶しており僕のなかでそれが漠然と残っています。

    つまり、私益を出発点として公益に繋がるのだろうか?私の欲求や動機から公が生まれるのだろうか?という疑問があります。
    私を出発点とするとどこかに公とのズレが生じてしまいそうな感覚があり、自分では公益の為と思っていることがいつのまにか私益の為になってしまっている危なさというか。。(漠然としておりすみません)
    違う話しかも知れませんが、私的な部分(人格等)に少々問題のある人物が公では物凄い成果を残すこともある。私的な部分はさておいて公的な場における活動や表現が公益に繋がれば何でもいいと言えば何でもいいのでしょうが人は他者の私的な部分を気にし非難したくなる。(妬みでしょうか)

    誰にでも私と公があります。
    公だけを意識して〇〇である「べき」となると理論や理屈や論理に偏り、自分の実感や感情(私)を置き去りにしてそこから離れていってしまい、他者に対する寛容さを失うような感覚があります。

    僕は公と私について理解が浅いのでこれからの課題とします。
    まとまりの無い長文を失礼しました。

  • #3

    RUIDO (土曜日, 06 1月 2024 22:15)

    ゴー宣のテーマに限らず、世の中の問題を解決したい時にはどれだけ多くの人を味方に引き込むかが重要だと思います。その中には中々声が出せない人も居るでしょう。自分も相変わらず言語化が苦手なので、そんな人の気持ちは良く分かります。

    ゴー宣というはどうしても「ハードルが高い」とか「難しそう」みたいな印象は拭えないと思います。だからこそ「仲間意識」や「楽しい」という感覚をアピールする事が鍵になるのでは無いでしょうか?

    勿論、公論サポーターのような方々も必要だし、尊敬しますが、今必要なのは新しい仲間だと思っています。

    そんな事を言ってる時点で「私」であり「公共心」に欠けているのかも知れませんが、これが自分の考えであり、カレーさんに賛同している理由です!


    ※30日の件以降、かなり悩んでいましたが、ようやく冷静に考えられるようになりました。先生の期待に少しでも答えられるようになりたいですね…

  • #2

    ピエール (土曜日, 06 1月 2024 20:06)

    私は、“楽しい”が出発点です。
    地元の図書館で初めてゴー宣と出会いました。読んでいて楽しい、面白いと思ったからよしりん先生、ゴー宣のファンになりました。

    楽しくなかったら、ゴー宣をここまで読み続けてこなかったでしょう。

    好きだから、楽しいから、他のゴー宣ファンと会って話したくなるんです。

  • #1

    リバチー (土曜日, 06 1月 2024 15:50)

    人によって公に向かう出発点が違うのかも知れない…
    カレーさんが、「仲間意識」から出発か~
    私は、私個人の内なる感情や体験を振り返って、そこから出発するから違う感じがするな~
    この辺りが研究したくなるけど、結果やサンプルを集める事が出来ないから無理だな~