≪ゴー宣創作隊のグループチャット≫ 「公私集個」について本気出して考えてみた

 

第2期ゴー宣創作隊

2024年1月27日

グループチャット内での会話

 

  

まいこ: いま「『個と公』論」を気になる言葉に付箋を貼りながら再読しているのですが、名言が多過ぎて、付箋だらけで、ゆっくりしか読めないです。

2000年刊行なので40代後半で、この本を出されたんですね…驚きです。聴き手はトッキーさんかな?

 

 

カレーせんべい:へー、『個と公論』とはしぶいですね(^^)v

はい。聞き手はトッキーさんです。

 

 

まいこ:あ、やっぱり~

和ナビィさんが公私集個とYouTubeライブのチャット欄に書いていらして、それぞれの言葉に先生が何と仰っていたか改めて読んでみたいなと思いました。

 

 

和ナビィ:まいこさん、その「公私集個」の動画は2010年10月10日開催第7回ゴー宣道場、テーマは「私から公への経路」でした。

この議論の導入部で、よしりん先生は大きく円形の図を板書されました。

 

縦軸は「私---公」

横軸は「集---個」。

 

この場面は上記の動画の中ほどにあります。

「公私集個」とはそのことです。

ゴー宣のコアなテーマが語られました。

 

 

まいこ:第7回第ゴー宣道場 「私から公への経路」の始めの動画を拝見して、先生のお話を書き起こしてみました。

いつも管理人さんが仰っていることがさらに腑に落ちたように思います。

 

 

*小林先生の言葉・書き起こし*

 

  公

集団⇔個人 

  私

 

 (切通さんのお話を受けて)

 

本当にびっくりしたよ、わしは。

いま言った話、全部、「私から公への経路」。

さっき書いた図に全部、繋がっている。

 

例えば、「ツイッターやネットやそういったものがどんどん、発展してきたら、編集者は、出版社はいらないんじゃないか」ということに対して「そうじゃない」要するに、公私集個の図でいったら、「私」から「公」に一気に発信するということは、ちょっと問題なんじゃないかと。

 

つまり、間に「集」、集団、出版社や編集者というものがいて、「集を経路して公にいくっていう形」が、絶対に健全なんじゃないかっていう話になるわけですよね。

 

 

そのあと、リゾートの話をされましたよね。

リゾートは基本的にプライベートで行くものですからね、それが必ず「公」に直結するのは必要ないんじゃないか、っていう話になりますよね。

 

それから東京に暮していたら、共同体そのものに関わることが少なくなるから、東京に住んでいると「私」と「個人」しか立ち現れない状態になるんじゃないか、っていう話になりますよね。

 

あと人命救助の問題がありましたよね。

結局、「私」、私心からゆけば、それはもう絶対、自分の命が惜しいわけですよ。

動けないですよ、自分の命が惜しいんだから。

 

けれども、自分の仲間や、自分の共同体、「集」といつも接続していたら、「集の対抗概念として個人」というものが出来上がってくると。

そうなると個人的決断というものを、いつも訓練しておかなければならないんじゃないか。

 

「個人」が逆に「公」に繋がってゆくと。

 

つまり特攻隊なんかも、日本軍に組織されますよね。

軍の中の自分、あるいは国に帰属する自分というものを強く意識して、集の方にいるんだけれども、集団として、「それ行け」と特攻できるかどうか。

なかなかそれは出来ないんじゃないか。

結局、最終的には、「私」と「集」の葛藤になってゆく。

 

自分としては「家族もいるんだから、国に残した家族の面倒もみたい」という「私」の部分にずっと拘らなくてはならない。

けれども、日本軍、あるいは日本国のためには死ななければならないんじゃないか。

最終的に何で決断するかといったら、「集の対抗概念である個人」、個人に向かって、個人的決断をしなければならなくなる。

 

「個人」というのは、物凄く作りにくい、実は。日本においては、特に作りにくい。

 

「集」の方に全部、偏っていくんですね。

 

集団への帰属心に、物凄く偏ってしまう。

だから同調圧力でやっちゃうこともあるわけですよね。

 

例えば特攻隊だってそうですよ。

「出動する奴は一歩前に出ろ」と言われたら、集団的な同調圧力がかかったら、前に一歩出なきゃしかたないような感情にすらなるんですね。

そうやって特攻隊に志願していった人間だっていたと思いますよ。

というのも、そこから先を考えるわけですよね。

自分の命と、集団に対する帰属心というものの葛藤の中から、結局、「個人」として決断して、「自分は行こう、死のう」という風に、個人的決断をしなくてはならない。

あの「個」というというのは、日本ではなかなか、難しいものになるんですね。

 

何故、個人というものが日本で難しくなるかというと、また難しくなるから…男性小便器の話、これも繋がると思うんですよ、公に。

何でかと言ったら、結局、「男とは何かという公共心」に繋がっていると思うんですよ。

男とは何かという感覚が、慣習としてあった時代。そのときの公共心は、男は立ちションするものだという話だったんですよ。

それが徐々に失われてゆくと、ある個人的な決断をしなくてはならない。

我が家に男性小便器を作るか作らないかという個人的決断をしなくてはならなくなってしまうわけでしょ。

そういう時代に追い込まれてしまっているわけですよね。

 

実はわしのマンションにも無いんですよ。

無いから座ってしなければならない羽目になってしまっているんですよね。

わし、自分の子供の時代から自宅には二つあったんですよ。

男らしさという公共心がまだ必要なのか、必要じゃないのかっていうことの決断が問われている状態になっている。

男らしいという公共心が必要だと思うんだったら、個人的な決断で作らなければならないっていう話は大げさなのかね(笑)

 

そういったことで、彼が話してくれたことは、全部、私から公への経路に関する話になっているっていう風に思います。

 

***

 

和ナビィ:おお、まいこさん、あのお話を書き起こしてご自分に取り込む作業を実行されるなんて!☆。

あの時、先生は円形の図を描かれましたね。

円というのは偏りのない形。

経路というのは「過程、通っていく道筋」という意味があるけれど、私には「円形バランス」という意味もあると思われました。

いや、そう受け取らないと先生のお話がすんなりと入ってこなかったのです。  

「道筋を辿って『公』に行きつく」とは限らず、自分の中にはいつだって「私・個・集・公」が同時にせめぎ合っているような気がしていたからです。

 

葛藤しつつバランスとって決めていく、というふうに。それも「経路」ですかね。

 

 

まいこ:いつもファンサイトを見ていて(私)、

勇気を出して投稿してみて(個)、

いったん編集者としての管理人さん(集)を間にして、精査されたものが掲載され、

先生に読んでいただいたり、時に意見広告といった運動に繋がる(公)。

 

YouTube動画を視聴していて(私)、

勇気を出してチャット欄やスパチャに投稿(個)

管理人さんに読んでいただいて(集)、

先生の目に留まったり、ジャニーズの時の様にバズる(公)。

 

管理人さんがゴー宣を読み(私)、

YouTube配信の前に考えをまとめて話し(個)

喫茶ヲワカの方やチャット欄での反応を繰り返して(集)、

男野系子が完成(公)。

 

ということかなと、今は理解しています。

 

 

カレーせんべい:ちょっと、すごいね!

書き起こしの内容も、皆様のやり取りも。

このメンバーだけで共有するのも惜しい。それこそ「公」に反する(笑)

もちろん差し障りが無い範囲ですが、ホームページにも取り上げさせていただきます<(_ _)>

 

 

まいこ:先生が「「個人」というのは、物凄く作りにくい、実は。日本においては、特に作りにくい。

「集」の方に全部、偏っていくんですね。集団への帰属心に、物凄く偏ってしまう。」仰っていたところ、管理人さんがいつも行っておられる「私→個→集→公という経路」が問題解決のひとつの方法になるのではないでしょうか。

 

 

リカオン:私自身「私」と「個」の違いがあまり分かってないです。

切通さんのお話を聞けばより理解が深まるのかしら。

いつも先生のおっしゃる西欧のキリスト教での神と人との関係が「個」に該当するのかな?

神様との契約で個人で善い事をするというのが「個」。

「私」はわがまま?な自分の思い?周りを顧みないような。

 

 

まいこ:リカオンさんの場合

日頃からゴー宣を読み(私)、

何事か起きたときの為にシュミレーション、車にキャンプ用品を準備している、絵を描いている(個)されていることで、

ボランティアで現地に行き、愛子さまの絵を出品して受賞し、madokaさんのお子さんに喜んでいただける(公)

ということになるような気がします。

楽しい私事が、公に繋がることが分かるのが、ファンサイトの素晴らしいところですね。

 

 

リカオン:カレーさんの行っている「私→個→集→公」は

「私」がゴー宣ファン

「個」がゴー宣に関連した場への働きかけ(DOJO参加、ファンサイト投稿やコメント)

「集」がDOJO参加者やヲワカのカフェ文化や大宴会

「公」がDOJOやDOJOのイベント、ファンサイトでの意見広告運動などかな?

ゴー宣ファンがキーポイントで、ゴー宣を読んでいる事で「私」がすぐに「個」になるし、ゴー宣をベースにしているので共通の「集」にも「公」にすぐ変換できるという事か! 

 

 

 

まいこ:ゴー宣や、ファンサイトや、様々な自分の好きなことを楽しみ(私)、

楽しんでいることを、だんだん形にしたくなって発信(個)、

管理人さん、または沢山の方に御覧いただいて精査され(集)、

一ファンが公に繋がることをできるようになるかもしれない。

創作隊の意義が、ここにありますね☆

 

 

カレーせんべい:皆さんすごいなぁ。

先日のYouTube生ライブでは「個公集私」を思想的に語ることに失敗しちゃいましたが、それぞれ個人的にゴー宣を通じて思想されているのがすごい!

参考にさせて頂きます♪

 

 

 

「集団主義」について

https://www.youtube.com/live/ilY_ATWjaSs?si=us4cLJOH0aXCaFBv&t=2270


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コメント: 5
  • #5

    牛乳寒天 (日曜日, 28 1月 2024 14:01)

    とても興味深いお話でした。よしりん作品を読み、沢山学んでいる気でいても、自分自身は浅いままだと反省です。皆さんの思考の深さが知的でご立派です。

    私・個・集・公の概念を一つ一つ丁寧に考えた事がなかったので、善き刺激をいただきました。自分の何気ない行いでも、自分なりの考えがどこに向かっていたが故の行動なのかを分析する事で、今の立ち位置や、次何をすればステップアップなのかを考える事ができるのではないか…そんな希望を感じました。

  • #4

    やん (日曜日, 28 1月 2024 10:47)

    みなさんの考察興味深いです。
    私、個、集、公の明確な定義が無いので本当に難しいテーマと思います。
    個と公はゴー宣でもよく語られており、そろそろ自分の中では自分なりの定義付けは出来てきていますが、これに私と集を加えると、さらに広がりや厚みをみせてきて、小林先生の書かれた縦軸横軸を見てもまだまだ理解が追いついて来ません。
    議論をすればするほど深みが出そうなテーマです。

  • #3

    新米派 (日曜日, 28 1月 2024 10:05)

    ――真善美への探求は言語活動(言語の派生形である身体的振る舞いを含む)によってのみ可能であるけども、論理(合理)が過ぎると打算に、懐疑が過ぎると虚無に堕ちてしまう。ゆえに論理と感情、懐疑と信仰の間で平衡を保たなければならない。人間社会においても、同一性と差異性の軸、及び外面性と内面性の軸によって、「自分自身」の性質として個人性・集団性・私人性・公人性に4分してみることができるが、やはり時所位に応じて集-個、及び公-私の間で平衡を保つためにルール感覚とダイアレクティク(弁証)精神とがそれぞれ不可欠となる。――

    というのが、西部邁さんの遺した『知性の構造』『国民の道徳』で掲げられているTEAM理論の骨子(の一部)だと自分は思い込んでいます。しかしこの理論は極めて抽象的で難解な論述なので、正直言って皇統とかコロナとか具体的な事案に当て嵌めて考えないと理解を進めていくことができません。

    とは言え、無理にTEAM理論へ当て嵌めて考察しても、「それは公人性じゃなくてむしろ私人性の極みと言うべきでは」「この場合は個人性と私人性の要素が混濁したまま議論が進んでいる」といったように、あまり実体的な解決策に関係なく思弁的あるいは形而上学的な記述に終始してしまう気もします。
    なので小林よしのり先生が常々警鐘している通り、≪あらゆる2項概念の間で平衡を保て≫≪平衡感覚を保つために常識に還れ≫という核心を踏まえていれば、ひとまずは間違えずに済むのだろうと思っています。

  • #2

    パラノイアOnザロック (日曜日, 28 1月 2024 09:04)

    とても興味深いです。
    コロナ禍に、日赤の献血に行ったのですが、マスク未着用のため断られてしまいました。
    その時、意味のない奴隷の象徴であるマスクを付けてでも献血をするべきなのか?
    マスクをつけないことが、日本の子どものため=「公」、につながると考えていたため、「個」と「公」のせめぎあいがすごい事になっていました。
    もし献血サークルにでも入っていたら、判断は変わっていたのかもしれません。

  • #1

    さらうどん (日曜日, 28 1月 2024 00:56)

    改めて深い話で面白い(興味深い)話ですね。
    2010年だからコロナ騒動の前の話で、
    コロナ騒動の時は八つ墓村的な同調圧力の暴走がありましたからね。
    戦時中の特攻隊の方々の覚悟に比べれば、死を覚悟しなくても抗える同調圧力ではありましたが、
    それでも、全体主義へのプチ訓練(?)みたいなものにはなった3年間なのかなと思います。
    でも、西欧人と比べても「個」の発露が難しい日本というのは凄く実感しましたし、
    今も病院とか介護施設とかの一部にそういうのが残っているので、そこでも「集」と「公」と「私」と「個」とのせめぎあいがあります。
    マスク未着用途中乗降客みたいなことまでしたら「公」を棄損していると思いますが、
    四六時中マスクしてたり、実質的にコロナワクチンを強要してるのも明らかに「公」ではないです。
    でも、無用なトラブルを避けるために、仕方なくその場でだけマスクを着けてやり過ごす、という判断も、いろんなせめぎあいの中で苦渋の決断(って言ったら大袈裟すぎますが)をした結果の行動とも言えますしね。