投稿者:グッビオのオオカミさん
今年の3月20日でオウム真理教による地下鉄サリン事件から29年になります。
地下鉄サリン事件からまもなく29年 「なんでカルトはいけないの?きちんと話せる人いないのでは」遺族ら 事件のアーカイブ化など求め
https://news.yahoo.co.jp/articles/4cfb54f028a5cf25ec43b53ed054eb4d77aed355
カルトとは、何なのでしょう?
元々、何教何宗何派だろうと、宗教は論理を超えた目に見えない「神秘」への「畏敬」に支えられているはずです。
哲学は宗教とは違い、基本的には論理と知性のもので、神秘と畏敬とはあまり言わないと思います。
だから安全かというと、決してそうでは無く、赤軍派などの共産主義者は神を否定し、論理実証主義に徹しているはずが、オウム真理教同様に反対派の粛清をし、殺人までおかしたのです。
何が、そうさせるのでしょう?
ある論理や観念が暴走し、社会に有害な結果を招く事がままあります。
生身の人間が社会との関わりのバランスを失った結果、自分(又は自分達)の理性の狂いに気がつかなくなるのでしょう。
「現場を取れ」「日常に帰れ」
薬害エイズ問題で、運動それ自体にはまってしまった学生たちに小林よしのり先生が主張した事に尽きる気がするのです。
カルトにはどこか、日常生活とのバランスを断とうとするところがあります。
または日常生活の否定とでも言いましょうか。
その時にその団体の考え方と、生身の自分の生活と、現実の社会との関係が歪むのでしょう。
社会との関係が歪んだ考えに囚われた時に、人は正常な思考を奪われカルト化するのかも知れません。
そう考えれば、諸々の陰謀論や、マスコミの情報災害や、何かを絶対視する「イデオロギー」も、その結果多くの有害な社会現象を起こすので一種のカルト化なのかも知れません。
あまりオウム真理教を笑えないなあ…と、キャンセルカルチャーやコロナ禍インフォデミックや皇位の男性継承絶対主義を見ていると、何だかそんな事をふと思いました。
(管理人カレーせんべいのコメント)
カルトとは、自らの理性や感性で選び取っていないイデオロギーのことだと思っています。
それがなぜいけないのかと言うと、「個」を経由していない”意見”は、「公」に辿り着かないからです。
カルトは、それを生み出した人間(教祖)の「私」に利用される運命です。
そういう意味では、「カルト」の対極が「思想」かもしれませんね。
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グッビオのオオカミ (木曜日, 21 3月 2024 18:01)
サンさんへ
"卑怯だから"本当にそうですね。
偽りの動機で近づき、相手を騙して搾取するのです。
れっきとした霊感詐欺行為です。
オウム真理教も統一協会も。
その嘘から始まった活動を守るために、嘘に嘘を重ねた結果が殺人までに至ったのでしょう。
だからカルトに改善はあり得ないのかも知れません。
それは社会性をもつ形での改善など「自己否定」になるからです。
サン (木曜日, 21 3月 2024 15:04)
卑怯だからです
自由・法律・人権・愛・正義など私たちが大事にしているものを建前に利用し尽くし、その本音は社会の寛容さを弱みと捉えて徹底的に付け込むやり方は反社会的である以前に、まず卑怯です
新米派 (木曜日, 21 3月 2024 02:26)
個人的な理解手法となりますが、自分は社会適合性と≪利益≫性との2軸で4象限に分類して「宗教」又は「組織」を考えています。
仮にタテ軸を社会適合性とすると、一部上場企業のように社会的に信用性の高い組織は社会適合性が高い一方で、反社などは文字通り社会適合性が低いです。
またヨコ軸の一方を、貯金や権力や地位など現世的な≪リエキ≫のあるものとし、反対側を敬虔や功徳、良心など内面における≪リヤク≫を重んじるものとします――同じ漢字を用いるため≪利益≫性と仮称します――。
オウムや統一などは、宗教を名乗っているくせに集金や政界進出、性欲充足など俗世のリエキにしがみつきながらも、その手法は社会適合性に欠けると断じざるを得ません。
同じリエキを志向していても、ひとまず合法的である株式会社や政党などは社会適合性が高いと言えます。(なおここで一部結論を先取りしますが、人間活動のすべてを論理で説明できるものではなく、その根底には言語化し難い感情があります。そうした感情は宗教的と言ってもよい超越性と繋がっている以上、人間のすべての行動、そして人間の組織は、大なり小なり宗教性を帯びるものと思っています。現に拝金教や権力狂いという言葉もありますが、これは世俗的だった人間行動が、反世俗的すなわち宗教的な振る舞いに容易に転じ得ることを示しています。)
キリスト教やイスラム教などの原理主義派は、リエキでなくリヤクを追求していますが、それだけに社会適合性が高いとは言い難いでしょう。
社会適合性が高く、かつリヤク性もある行為/組織としては、ボランティアや地域社会の活動が当て嵌まるでしょうか。もちろんこのような活動も、実は地元での商売の足掛かりにしたいだけだったり社会的地位を高めたいだけだったりし得るわけですが、さしあたりは内面の研鑽を前提としたものとみなしてよいと思います。「ゴー宣DOJO」のような組織・活動もこの象限に対応するでしょう。
以上の4象限のうち、リヤク性のあるものは宗教的と言えるでしょう。念のため補足すると、教祖や教典の前で思考停止するだけとは限らず、自身の宗教感情や歴史感覚はどこに繋がっているのかといった健全な神学的態度も含んでいます(いずれにしても宗教は本質的に、世俗的な価値観と競合するものです)。そしてリヤク性を求め、かつ社会適合性の低いものが(浮世離れが甚だしいという意味で)カルト宗教的と自分は認識しています。
それではオウム教団や統一教会など、社会適合性が低くリエキ性に傾いている組織はカルト宗教ではないのでしょうか。暴力団のフロント企業などと同じで、任侠と言おうが真言と言おうが便利な物言いを悪用して集金や権力に執着する集団は、単に反社会的組織とだけ呼べば充分なのであって、カルトを冠しようがしまいが宗教組織だと個人的には認識していません(もちろん法的には、宗教法人格があるのならそのように処遇せざるを得ませんが)。
以上4象限の分類に基づけば、例えば政党と宗教原理主義とはとても相性が悪いと言えるでしょう。また、(時には宗教を僭称する)反社組織と、社会との調和を図りつつ思索・思想を磨こうとする集団/行為とは対極にあるとも言えるでしょう。
グッビオのオオカミ (水曜日, 20 3月 2024 22:20)
思想とカルトは対極的な関係というのは、大賛成です。
私はカルトとはまた別にイデオロギーとはある観念の結論を絶対視するあまり、そこでバージョンアップを止めた状態では無いかと思います。
固定された考え方イデオロギーとは"固定観念"では無いかと思うのです。
カルトとは…熱狂的にある観念を信じ、ことに特定のカリスマ的指導者を信じる、排他性があり、社会性が欠落した状態を指すのでは無いかと思います。
それらはたいてい"疑問"を許しませんね。
人は疑問があるから調べ、突き止め、新たな発見をするものでしょう。
それが成長するという事だと思います。
問いによって、思考を深めるのかも知れません。
カレーせんべいさんが言う、自分で選び取るかどうかは、大事なポイントです。
コロナ禍では富嶽の映像や、有名大学教授の肩書きで、最初にウイルスに対する恐怖心や嫌悪感を刷り込まれ、そして「専門家」の発言に依存をさせました。
恐怖心と依存心。
心と論理がそういう形になる様に誘導されました。
つまり、カルトには一種の"嘘"が巧妙に混ぜられるのでしょう。
"神を知る事は知の始まり"
と旧約聖書の箴言集にあります。
また、偶像崇拝を嫌います。
偶像崇拝とは、何も人形を拝むから偶像崇拝になる訳でもありません。
人が造ったもの、それ自体を指すのでしょう。
それは考えや、キャッチコピーもそうでしょうし、肩書きのある人の意見もそうでしょう。
崇拝するとは、それらを'神"として拝みありがたがる事で"絶対視"する事です。
やはり、カルトは排他的な偶像崇拝でしょう。
誰かか造った意見や物の見方に囚われ絶対視する。疑問を一切受け付けない。
宗教自体はある意味、既存の価値観を打ち壊す所がありますが、それは常に思い込みに囚われ、振り回されて生き勝ちな自分自身の固定観念を打ち壊して、より良く生きるためにそうするのであって、同じ社会に生きる他人に危害を加える事は本来の意図では無いでしょう。
カルトは社会との関係を失うために、歯止めを失い暴走しやすくなります。
コロナ禍の場合は利権によるものでした。
また、週刊文春の暴走もフタを開ければ、売り上げのためでもあります。
そう考えれば、どんなものでも思い込みによってイデオロギーとなり得るし、それを意図的に(理由は中心人物の自尊心か、利権か、固定観念かは分かりませんが)すり替えれば、排他的で非社会的なカルトはいつでも生まれ、私たちの日常を蝕むのでしょう。
すいません、長くなりました。
パワーホール (水曜日, 20 3月 2024 21:31)
宗教や哲学だけでなく科学もカルト化します。その最たる例がコロナ騒動であり優生思想だと思います。