≪思想≫災害ボランティアと脱正議論

 

投稿者:リカオンさん  

 

 

これまで何回か能登の震災ボランティアの経験を報告しました。

経験する中で感じた事を書きます。

 

参加すると他のボランティアとの間に世間ができます。

熱い情熱を心に秘めている方、ボランティア活動自体を楽しむ方、各地の被災地を渡り歩いている方。

定年後の生き甲斐にされている方。

色々な方が集まります。

さらに各地の社会福祉協議会やNPO、大学のサークルなど様々な民間団体も入って来て、県や市町村とは別に独自に人を集めて活動しています。

 

 

この様な中にあって自分はボランティアをする事自体に酔ってないか。

自分達は良い人と勘違いしていないか。

団体の中に政党や宗教団体が混じっていて利用されないかと自問します。

 

 

純粋な善意で活動していると自信を持って言えるだろうか。

たぶんそれはNOで偽善に違いなく、偽善事業と言ってるぐらいが丁度いいと夫婦で話し合いました。

 

また、これだけの規模の災害ですのでこの先何年もかかる息の長い作業になるはずです。

たぶん善意だけでは長続きしない。

 

そこで自分は仕事や家庭、体調や趣味に影響が出ない程度で無理なく参加しようと。

一方で主人はフリーランスの仕事以外はボランティアに参加。民間団体が現地に確保した宿泊所を利用し、一時的に団体に所属し1週間ぐらい行きっぱなしの事もあります。だいぶん入れ込んでいる様子。

 

被災地が近いゆえ参加しやすい環境にあり、その分自己の分を忘れて入れ込んでないか。

自分もファンサイトに投稿しているのも単に承認願望を満たしているだけなのではとか、情だけで息長く参加するのは難しいだろうかとか考えてしまいます。

自分の立ち位置を確認する必要性を感じ、改めて「脱正議論」を紐解きました。

 

読み始めると、「運動自体が自己目的化していないか」「正義のみでやって来る人々はむしろオウム信者的危うい人々かイデオロギーで行動している」「個の連帯」など、先生も自問自答をしながら薬害エイズと戦っていたことが蘇ってきました。また、今の自分の置かれている状況に参考になる胸に響く言葉がいくつも見つかります。

 

また先日の「チェブリンに保守思想を分かるまで教える」では「本当の保守思想はバランスをとっていく事。白か黒か決めず、ありとあらゆる面から考えないと行けない。」という言葉に励まされたような気持ちになります。

 

自分の行いや立ち位置がバランスとれているのか、絶えず考える事が保守の道なのかと思うと少し自分に納得がいった気になりました。

 

今後もボランティアに関して、たまに新しい気づきや皆様と情報共有したい事がありましたら、報告をしていこうと改めて思います。

 

 

 

(管理人カレーせんべいのコメント)  

  

私も本当は被災地に駆けつけて、被災者のために力になりたいです。

 

だけど「できる範囲」というのがあります。

 

私は大阪から離れることも、時間を割くことも、多額のお金を出すこともできません。

 

そしてそれらの条件が満たされたとしても、「能力」があるかどうかは別の話です。

 

 

だからリカオンさんのボランティア活動は「やっていただいている」という感覚があります。

 

是非とも応援をさせて頂きたいです。

 

・・・

 

「承認欲求」という言葉。

 

”カレーせんべい”は、何度も何度も「批判」としてぶつけられ続けてきた言葉です。

 

だから私は以下のように反論することにしています。

 

 

承認欲求なんざあって当たり前だろ?

 

「励み」があるから頑張れるんじゃねぇかよ、バカヤロー!

 

聖人君主じゃねぇんだよ、こちとら!

 

・・・

 

承認欲求を満たすことで生産性に繋げる」ことは、社会にとっても、個人にとっても、活力をもたらすと考えます。

 

天皇陛下ですら、愛子様ですら「承認欲求」はあるだろうからね(^_-)-☆

 

 

またリカオンさんのボランティア報告や気付きなど、投稿をお待ちしておりますo(^o^)

 

 

【関連記事】

 

≪報告≫ 中能登町の震災ボランティアに参加しました(2024年3月10日) 

 

≪報告≫ 震災ボランティア2回目に行って来ました(2024年2月4日) 

 

 

≪報告≫ 災害ボランティア活動をしてきました(2024年1月27日)

 


↓(スポンサーリンク)↓



コメント: 19
  • #19

    チャチャ (金曜日, 22 3月 2024 06:41)

    バングラデシュで子ども達に食事を配り、学校も作っている知り合いがいます。「偉いね、すごいね」と言われるそうです。
    でも知り合いに言わせれば「お腹すかせたままの子どもをほっとくと、酒が不味くなる。美味しいお酒を飲むためにやってる」だそうです。要は見過ごせないんでしょうね。 
    承認欲求かも、と思いながらボランティアされてる時点でそれには当たらなそう。仮にそうだとしても実際被災地の方が助かるなら、動機が何であれいいんじゃないかなー(⁠ ⁠´⁠◡⁠‿⁠ゝ⁠◡⁠`⁠)

  • #18

    ト〇ロ岩 (木曜日, 21 3月 2024 09:53)

    昨日、実家の罹災証明書を発行するために役場に行きました。
    まず、祝日なのに働いている職員、ボランティアの方々に感謝です。
    発行までの待ち時間は二時間半くらいだったと思います。
    待っている町民は高齢者ばかりで若者はいませんでした。
    52歳の私がおそらく、一番若かったと思います。

    その間、「待ち時間長いですから整体どうですか?」「血圧測りますか?」
    と声掛けしている若いボランティアの方々がいました。
    その中の一人は関西から来ていたようで「明日かえって4月また来れたらと思っている」
    と母に言っていました。

    話は変わり、証明書発行の手続きは「阿南災害対策本部」の刺繍の入った作業着を着た方に
    対応してもらいました。
    心の中で「遠いところからありがとうございます」と呟きながら話を聞いていました。

    何が言いたいのか、わからなくなりましたが
    ボランティアは絶対に必要で、でも自分の私生活を犠牲にしてまですることではないのかな?
    と思った次第です。

    ただ、私個人の立場や主観で言えば、ボランティアに携わっている方々は
    無条件で「感謝」しかありません。

  • #17

    はな丸 (水曜日, 20 3月 2024 23:13)

    己の承認欲求を満たしたい人は、相手のそれを受け止めて、認めてあげることを忘れてはいけませんね。あくまで双方向の承認。一方が過剰になってはいけない。
    そのように気を付けてます。できてるかわかりませんが。

  • #16

    リカオン (水曜日, 20 3月 2024 22:41)

    すみません。もう一つお話していなかった事があります。私の主人がボランティア沼にハマって1週間帰らぬ人に。行ったっきりにならないように私も理論武装をして時々釘を刺しておかないと。
    なので皆様のコメントを理論武装の参考にさせてください。
    でないと、4月のDOJOに行けなくなったら困っちゃいますもんね。

  • #15

    おおみや (水曜日, 20 3月 2024 20:52)

    私としては「より良く生きてゆく、その問いの立て方」の参考書としても存在意義を見出している脱正議論、御二人や皆様のコメントも其々の世界観が凝縮されていて興味深く読ませて頂きました。自分自身を検証の対象とした上で更にそれをやり続ける、これはなかなか出来ない事ですが、既に出来ておられる方々がこんなにもいらっしゃる事に感銘を受けました。末席ながら私からは…
    【偽善から】
    現在は否定語としてのニュアンスが強い「偽善」、あと何十年かして「使用されるうちにこなれてきて否定語としてのニュアンスが弱まりあるいは消滅し、「完全なる善」以外の「善の一つ」として肯定的な使用のされ方となる…それが常識となる時代、来ると良いなと思います。単語のニュアンスの変化はこれまでも有りましたし、来る可能性は充分有ると思います。
    「完全なる善とは何か」「では純粋な善意とは」から入って、実践するとしたらどう生きる?という問いの立て方も出来ます。
    【承認願望】【承認欲求】
    これも現在はやや否定的なニュアンスが強い言葉ではありますが、むしろ多用するうちに変化が起きてくるかもしれません。生きているうちに見届ける事が有るかどうか…有ってほしいです…これも願望・欲求ですね。
    承認はなぜ願望や欲求になるのか?という問いの立て方も出来ます。これについては…リカオン様は理系女子でプロフェッショナルの方ですので、お仕事で接している動物達と人との「違う部分・その差異の大きさ・同じ部分」を多角的に見つめ解析する機会と能力に恵まれております。
    そしてそれをより良く活かしより良い日々を、出来る範囲でそれを通じて得た世界観を私達が未だ見ぬ何かとして還元して頂けるなら幸甚です。
    【酔っては】
    ある程度の節度ある酔い方でコントロール可能であればそれも良いでしょう。それもまた駆動力と出来ます。皆様はその飲み方、醒め方は既に十分に心得ておられるとお見受けしました。

    全国に向けての報道では殆ど取り上げられていなかった氷見市や中能登町の現場の一端をこちらで知る事が出来た方も大勢いらっしゃる事でしょう。そこも含め、その行動に対し改めて感謝申し上げます。

    報道で「珠洲市のとある復旧現場、一人でトラックで現場に乗り付け、そのまま一人で作業し、作業を終えてまた次の現場へ走り去る・・・たまたま珠洲市の写真館のオーナーさんがその現場を象徴的な光景として撮影した1枚の写真、オーナーさんは涙ながらに(これを知って欲しいんです)と訴える」というのを目にし、大変印象に残っております。作業員さんからすれば(誰にも知られずとも、粛々と淡々と目の前に真剣に取り組む)、写真館オーナーさんからすれば(そうやって、承認されなくとも、やはり知って欲しい)、どちらにも真実が見えました。

    今日はサッカーJ3北陸ダービー、カターレの勝利おめでとうございます&ツエーゲンはしっかりしてくれ~い。両チームの熱い応援席ゴール裏は賑やかだった事でしょう。(特に今日は)チームとサポーターの関係は「承認」&「願望」→「信頼」&「活力への転化」が大きな好ゲームだった事でしょう。

    リカオン様は「2年程前に、承認願望の否定的ニュアンス部分を敢えて封じた上で大いに駆動させ、新幹線を使って高岡市に現れたイケメン」を見ておられます。
    達人級南京結びを駆使した御活躍、期待しております。

  • #14

    パワーホール (水曜日, 20 3月 2024 20:10)

    運動を自己目的化しないという脱正義論の小林先生の言葉やリカオンさんの偽善事業という考えは、歯止めや戒めという感じがしますね。男系固執派や感染症専門家には欠如しているものだと思います。

  • #13

    あしたのジョージ (水曜日, 20 3月 2024 19:56)

    承認欲求は、誰にもあると思います。 私もこのサイトやライジングコメント欄に書き始めた頃は、凄くありました。
    色々とあって段々と承認欲求が落ち着いてきたかもしれません。
    でも承認欲求はなくなりません。
    色々な行動の原動力だと思います。
    リカオンさんは今のままでいいと思います。
    無理しない程度でやって下さいね!
    またレポートを楽しみにしています。

  • #12

    リカオン (水曜日, 20 3月 2024 17:59)

    皆様コメントありがとうございました。
    ちょっとのめり込み過ぎてもいけない、振り返って見る事も重要と脱正義論を開いてみたら、やはり良い事が書かれていて、つい投稿してしまいました。しかし皆様に同情や心配をさせてしまってようで申し訳ございません。

    ボランティアに来られる方を見ていると、大きな声で主張するようなタイプの方はおらず、静かでさりげなく、朗らかで、でも黙々と支援をしている姿が清々しく、ゴー宣やDOJOに集う人とも共通点があるような気がしました。

    先だっての出来事。50代くらいの寡黙な男性と同じグループでした。トラックを待って休憩している時に、被災家庭を何かの宗教のグループが勧誘しに来ました。すると今まで大人しかった男性が、「状況を考えてみろ!そんな事より手伝ったらどうなんだ!」と怒って宗教の勧誘を追い払ってしまいました。大人しい方と思っていたけれど、熱い気持ちを内に秘めているのだと感じました。

    でもそう思ってこの良い人世間に酔ってもいけないなと思いつつ、別れる時はまたいつかどこかでお会いするかも知れませんねと言いながらお互いの名前をろくに覚えずさらりと別れています。
    これが個の連帯かどうかは分かりませんが。

    ボランティアに行き、何か気づきを得られる事がありましたら報告します。
    次行く時までに南京結びを練習しておこうかなぁ。

  • #11

    牛乳寒天 (水曜日, 20 3月 2024 17:19)

    自問自答しつつ、謙虚な姿勢でボランティアに勤しまれてご立派です。私の憧れる大人の在り方です。
    カレーさんの承認欲求のお話、長くご苦労されてきた事をお察しいたします。難癖つけてくる方々は、自分のやりたいことや正義感に真っ直ぐなカレーさんを羨ましがって妬んでいるんでしょうね。そんな幼稚な底意地悪さにひきずられず、丁寧に頑張ってらっしゃるお姿もご立派です。

  • #10

    もこ (水曜日, 20 3月 2024 17:14)

    漫画か何かだと思うどこで聞いたのだったか、「戦いを楽しむのと、楽しみの為に戦うのは違う」という言葉が過ぎります
    戦いを求めるようになってしまったら拙いと

  • #9

    ひとかけら (水曜日, 20 3月 2024 16:22)

    日常の負担も有るのに災害ボランティアで被災地の方々の重荷を背負う覚悟をもったリカオンさんは立派だと思います。

  • #8

    まいこ (水曜日, 20 3月 2024 16:16)

    途方に暮れている時に助けて下さる方がいたら、どんなに嬉しいでしょう。助ける方も、常に日常とのバランスを取りながら、迷いながら行っておられる。数々の震災などで蓄積された経験や知恵によって、以前よりは齟齬も少なくなっていると思います。実際に動かれている方には、ただ頭が下がります。

  • #7

    RUIDO (水曜日, 20 3月 2024 10:20)

    「偽善はダメ!」も「承認欲求はアカン!」も一種のイデオロギーですからね。

    問題は次の段階で何を成すか?でしょう。だからボランティアに参加する為の「偽善心」はあって良いと思います。むしろ大事なのかもしれません。

  • #6

    なんにきょく (水曜日, 20 3月 2024 10:12)

    ボランティアなんて押し掛け助っ人とか、杉さんみたいに、勿論売名行為、とか言えればいいんだろうけど、確かに、困っている人を、助けるのは、当たり前としても、やりがい詐欺とか、国が、先頭に立ってやらなきゃいけないはずだけど、それもやらずに、逆に、民業圧迫すら、感じますよね、海外と、比較しても、しかたないけど、有償ボランティアも、あるんだから、そろそろ、次のステージの、取り決めも、議論しないと、間に合わなくなるのではと、思います

  • #5

    たけし (水曜日, 20 3月 2024 09:34)

    私生活の時間を割いてボランティアに駆け付ける人を、心から尊敬します。時々、著名人の寄付やボランティアを「売名行為」と茶々入れる人もいますが、寄付やボランティアが盛り上がる上に、その人のイメージも上がるから良いこと尽くめです。売名と見られても、承認欲求があっても、少々自己陶酔していても、自分を見失わずに、結果的に誰かの役に立ったなら、それだけで素晴らしいと思います。

  • #4

    Tsuka (水曜日, 20 3月 2024 07:47)

    自分以外の「〇〇の為に」というのは、ときに凄いエネルギーを自分に湧き起こさせる。僕は自分の為だけだとそんなに頑張れない。

    情熱を持って他者の為に頑張っている人、困っている人、子供(特に施設)のことを想ったときに僕のなかで強いエネルギーを生む気がする。

    ただし気をつけないといけないのは、いいことをしている自分に酔ってしまうことです。エゴやプライドと信念(この言葉も胡散臭い)というのは紙一重ですが、そこに思想があるかないか?だと昨日のトッキーさんのブログを読んで腑に落ちました。

    ボランティアというのはその行為の実質的な
    有効性もそうですが、その「気持ち」を向けてもらえること自体が被災者や困っている方に精神的な元気を与えるモノだと思いました。

  • #3

    グッビオのオオカミ (水曜日, 20 3月 2024)

    なるほど。深い話だなあ。
    私もボランティアに関心が無いのではありませんが、金銭、時間、技術など諸々を考えると"今の自分には出来ない"のが正直な所です。
    リカオンさんには代わりにやってもらってるという感覚と、体験談を面白く読ませて頂いてます。
    承認欲求…私も無い事はないですね。
    でも、そういう自分自身の感情を偽らずに認め、必要に応じ警戒する事が大事だと思います。
    カルト化、イデオロギー化。
    結局それは、ある善意から始まった事に対して、絶対の善では無いものを絶対視しすることから始まるのでしょう。
    そうして「疑問」を投げ掛ける余地や、必要に応じ日常生活の中で「相対化」する余裕が無くなると自分の中に"偽り"が入り込みカルト化やイデオロギー化するのだと思います。
    偽善事業(笑)名言ですね。
    笑って夫婦でそう言いあえている内は大丈夫でしょう。

  • #2

    サン (水曜日, 20 3月 2024 01:25)

    リカオンさんの活動レポートは読み物としても面白いので、それだけでも価値がありますよ
    ご家族様共々ご自愛の上これからも頑張ってください、ご報告楽しみにしております

  • #1

    千本通り (水曜日, 20 3月 2024 01:23)

    よく「何で始められたんですか?」とか「きっかけは何ですか?」と、きかれるれることがあるが、そんな理由は大したことじゃない。し続けた理由の方が大事なのだが、案外自分でもわからなかったりする。単に楽しいからかもしれないし、承認欲求なのかもしれないし、自分を高めたいという自己満足かもしれない。しかしお釈迦様のお説教だって同じようなところから来ているのでは? 結果としてそれをし続けていることが大事なのだと思う。